三分間説教
ルカ3:1-6より、「まっすぐな道でさみしいだろうか」
待降節に入っていますので、聖書日課は、クリスマスに関する記事となっています。今日の個所の前半では、イエス・キリストの誕生に纏わる歴史的な背景が描かれています。詳しい研究によると、実際の誕生は、紀元ゼロ年ではなく、紀元前4年のころだそうです。それに、12月25日のクリスマスに関しても、これは、西方教会の伝統であって、東方教会では、今でも1月6日がクリスマスとされています。12月25日は、もともとヨーロッパで祝われていた冬至祭と救い主の誕生を組み合わせて決めたようです。ですから、歴史的に厳密にいえば、本当のクリスマスは、紀元前4年の1月6日だったと考えられます。
それにしても、聖書がこれほどクリスマスの背景にこだわるのは、キリスト教が一つの宗教思想ではなく、「実際の出来事」だった、ということではないでしょうか。この点で、おおくの日本人が間違っています。なぜなら、宗教は、「ある種の心の持ち方や信念」だと考えられているからです。聖書はこれに対して「ナイン=否」を提示しています。思想でもない。妄信でも迷信でもない。神の子イエス・キリストが生まれたのは「事実なんだ!」と主張しているわけです。考えてみれば、まったく空想の産物の典型であるような、サンタ・クロースにしても、聖ニコラスを原像としているわけですからね。日本の神話だって、誇張はされているものの、歴史的背景はあるのがわかっています。その点で、ユダヤ人の文化の中の歴史的考証というのは、日本人に考えられないくらいに厳密なのです。有名な話では、偶然に発見された死海写本のイザヤ書の記述と、モスクワの博物館に保存されていたイザヤ書の古代写本とが、場所も時代も違うのに、一字一句違わなかったという記録があるくらいです。
ですから、ローマ時代のこの時期に、今のイスラエルであるガリラヤで、イエス・キリストの誕生が起こったというのは「事実」なのです。
それにしても、今回のイザヤ書からの引用を見ますと、ギリシア語原典にあるユーセイアス(まっすぐ)という言葉が気になります。「まっすぐ」で思い出すのは、種田山頭火の俳句、「まっすぐな道でさみしい」ではないでしょうか。山頭火自身は、正式の坊さんにもなれず、托鉢をしながら全国を行脚していたのですから、この句からも、彼の孤独感が伝わってきます。一方、聖書はどうでしょうか。孤独感でしょうか。預言者イザヤは何を伝えたかったのでしょうか。まあ、さみしい気持ちとか、孤独感なら、わたしたちも大いに共感できるものです。ただ、神を信じる預言者が「さみしい」と感じたとは考えにくいですね。皆さんはどう思いますか。これは、やはり、ギリシア語原典のユーセイアス(まっすぐ)を調べてみる必要があります。そこに、なにか、クリスマスの秘儀が隠されているのかもしれません。なんだか、ドキドキしますね。さて、ギリシア語辞典で見ますと、これには、直線という意味のほかに、神の前に義であるという意味が含まれています。義という思想は、ユダヤ教でもキリスト教でも神学の中心を構成する考えですが、社会的な正義という意味ではありません。創造主(生みの親)である神の前に、善悪を超越して、何一つ隠すことなく告げるという意味です。それは、孤独の対極でもあります。神と人とが一心同体ということでもあります。もっと、わかりやすくいえば、子供が親に対して、嬉しいことも悲しいことも、成功も失敗、嘘も真実も包み隠さず、「まっすぐに」伝えたら、愛情深い親はそれを嫌がるでしょうか。むしろ逆でしょう。そこに、神の子イエス・キリストの誕生の秘儀、そして降誕を信じる者に起こる、第二、第三の神の子の現実(弟子たちがその実例)があるのです。もう、長くなったので、今日はこの辺で筆をおくことにしましょう。皆さんの今年のクリスマスが、「まっすぐ」で、神の愛を知る喜びの時となりますように祈ります。
追記; パウロがキリスト教に回心したダマスコの町の通りの名前も「まっすぐ」というものでした(使徒言行録9:11)。まっすぐな道は、試練や孤独感に満ちた道ですが、パスカルもそこでしか神に出会うことはできないと述べています。