印西インターネット教会

菊川教会伝道説教「人生の春はすでに来ている」

2月2日 菊川教会礼拝
説教題「驚きと権威」聖書個所ルカ4:21-32
特別の祈り
主なる神様、わたしたちには、迫りくる危険から身を守る力がありません。どうか、わたしたちの体と心を強めて下さい。そして、罪のもたらす弱さを、わたしたちが克服できるようにお導きください。父と子と聖霊の御名によって祈ります。アーメン
讃美歌21
7番、529番、412番、81番、88番

寒い冬のさなかに桜の木を観察しますと、すでに春に咲く蕾がついています。まだ寒くて雪が降ったりしている間に、草木は既に春の準備を終えています。イエス様のお生まれになる前に、母マリアは、生まれる子がいと高き方の子となるという天使のお告げを信じました。またその話を聞いた親戚のエリサベトは聖霊に満たされ、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言いました。人類の救いを完成する救い主が誕生する以前に、その働きを信じる者が現れたのです。今週もまだ顕現節ですが、アメリカの神学校で学んでいたころ、顕現節の言葉であるepiphanyという言葉の意味は、ちょうどタンポポの種を息で吹くと散っていくように、真理が伝搬していくのだとある牧師が説明したことが忘れられません。救いは静止したものでなく、そよ風に乗ってはるか遠くに運ばれていく福音の種のようなものです。
 イエス様の伝道の旅は、ふわふわ飛んでいくタンポポの種の動きのようだったかも知れません。あるときはヘルモン山に登り、ある時はエリコという死海近くの熱い低地にいったこともあります。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58)とあるように、あてどもない伝道の旅であったのです。今日の箇所はその福音伝道の旅の初めについてです。誘惑の山で悪魔の試練を受けたのち、イエス様は故郷のガリラヤで伝道を開始し、故郷のナザレにも立ち寄ったのです。
イエス様は、故郷のナザレに久しぶりに戻り、ユダヤ教の会堂で、礼拝で聖書朗読し、そのあと説教しました。イエス様が聖書を大切にしたことがわかります。その時の印象深い言葉が21節の「この言葉は、あなたが聞いた時に、実現した」という名言です。これが聖書に対するイエス様の信仰姿勢でした。罪からの解放、人類の自由、主の恵みは「既に」実現したというのです。イエス様は、まだ、十字架にかかっていませんし、復活もしていません。しかし、聖書を読んで、イエス様は、「この言葉は、あなたが聞いた時に、既に実現した」といわれました。イエス様の信仰は、まだ見ていないことなんですけれども、神の言葉の権威を、既に現実化したものとして確信するというものでした。
 22節では、ナザレの人々がイエス様の説教を聞いて驚いたとあります。人間は常に外側に注目します。わたしも大分県から大阪まで、瀬戸内海フェリーに乗って瀬戸大橋の橋の土台の近くを通った時に、その巨大さに驚きました。しかし、人間の驚きは消えやすいものです。賞賛も軽蔑もすべて外面のことだからです。ナザレの人びとは、イエス様の説教という外面には驚きましたが、神の権威を信じていなかったのっで、すぐその後で、イエス様がヨセフの子であることに失望したのです。
では、わたしたちはどうでしょうか。遠くから冬の桜の木を見ても、まるで枯れ木であってその枝の一つ一つに既に春が実現していると誰が信じられるでしょうか。だれが、春が既に来ていると信じられるでしょうか。キリスト教を信じていない人がクリスチャンに、信じたら何が変わるか証拠を見せてくれ、と要求することがあります。それは、神の権威を信じていないものが、人間的な驚きを求めているわけです。クリスチャンなら行動が立派でなければ信じない。願いがかなうとか、病気がいやされるとかです。これは、ナザレ人々が言った「医者よ自分自身を治せ」の要求と同じです。これは神の権威を疑う態度です。結果を見るまでは信じない、という態度です。聖書は反対です。「信仰とは見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)とあるように、見えることに先だってみ言葉が「既に」実現しているという状態があるのです。
 イエス様は、疑う人ではなく、み言葉の実現を確信する人でした。イエス様は「神を信じなさい。少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならばその通りになる。すでに得られたと信じなさい。」(マルコ11:22以下)と教えました。ところが、ナザレの人々が、イエス様は「ヨセフの子ではないか」と言ったように、子供の時のイエス様しか認識していないのです。わたしたちも、ナザレの人々に似ているところがあります。「あなたの罪は赦された、あなたはもう昔のあなたではない。罪が赦されたのだから、罪というあらゆる束縛からあなたは解放されている。あなたは自分の望む良いことが何でもできる自由な人だ」というメッセージを聞いても、神の権威を受け入れていないので、実現しません。だから、イエス様は、イスラエル人であっても神を求めなければ救いはなく、その時、救いは異邦人に移されることを新しく述べられました。現代で言うなら、教会員でも神の権威を受け入れなければ、救いはないのです。しかし、話をナザレの人々に戻すと、そこまで黙って聞いていた「善良な人々が」怒ったのです。見たものだけに驚き、見えないものは信じないという態度だったからです。
 ですから、今日の個所はナザレ住民の不信仰だけでなく「教会の不信仰」について語っている箇所とも言われています。予算とか、計画を信じているのですが、不可能を可能にする神の権威を信じられないのです。信じないときにイエス様は奇跡を起こしません。
今日の記事の最後に、ナザレから遠くないカファルナウムのことが書いてあります。これはガリラヤ湖畔の町です。ナザレから直線距離で約30キロ、菊川から焼津までの距離です。当時の人は、この距離を一日で歩いて往復できたそうです。その途中に、水を葡萄酒にかえたカナという町もあります。ところで、カファルナウムの人びとは、神の権威を信じました。そして、イエス様も多くの奇跡を行っています。
わたしたちは神の権威を信じたほうがいいと思います。そして、神様は、教会に牧師を派遣し、罪を赦す権威を与えています。エレミヤ書の日課に「わたしはあなたを聖別し預言者として立てた」とある通りです。だから、牧師の按手礼では手を置いて聖別するわけです。牧師が偉いわけではないです。牧師を派遣した神に奇跡をおこなう権威があるのです。イエス様はそのことを教えたのです。毎回、礼拝で罪の赦しが宣言されているときに、牧師を遣わした神の権威を信じるときに、不可能だったことが可能になります。「人間にはできないが神にできないことはない」(ルカ18:27)
そのような不可能を可能にした歴史上の人物が何人かいます。一人は、南アフリカの人種差別撤廃のために働き、27年間も監獄に入れられても、希望を失わず、最後には南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ氏です。彼が残した言葉は、「何事も成功するまでは不可能に思える」でした。もう一人、イギリスの植民地だったインドの独立のために迫害する者を憎まない非暴力の運動を54年間も続け、最後は暗殺されてしまった、マハトマ・ガンジーの言葉は「弱いものほど相手を許すことができない。許すのは強さの証だ」というものです。彼らは不可能を可能にした人々です。逆に、不可能だと思うこと自体も、心理的な縛りであり、罪の結果です。
イエス様はそのように罪に縛られているわたしたちに、こう教えています。「神を信じなさい。少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならばその通りになる。すでに得られたと信じなさい。」(マルコ11:22以下)この言葉には権威があります。教会はどうでしょうか。聖別されていないのでしょうか。エフェソ書には教会について詳しく書いてあります。そこを見ると、1章4節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストによってお選びになりました。」と書いてあります。神はわたしたちをも既に聖別して権威を与えています。わたしたちが自分自身を見ると、まるで枯れ木のような冬の桜の木です。しかし、どんなに、自分が神のために何の花も咲かせない、枯れ枝のように思っても、天地創造の前から神はわたしたちを愛し、福音の花を咲かせる準備を行い、蕾を既に形成してくださっています。なぜなら、このメッセージに触れたときに、「この言葉は、あなたが聞いた時に、実現した」という言葉の権威を信じるならば、すべての束縛、すべての恐れ、すべての疲れ、すべての悲しみ、すべての死の力から解放された自由なあなた、神に愛された自分、神と同じように愛と平和の中を生きることのできる自分を発見するからです。神は信じる者を聖別し、春は既に来ているからです。

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