3月2日菊川ルーテル教会伝道説教
2025/03/05
3月2日菊川教会説教題「苦しみから自由へ」ルカ9:28-36
特別の祈り
全能の父なる神様、あなたは御子イエス・キリストの変容をとおして、あなたの栄光を現してくださいました。この世に生きているわたしたちは、多くの重荷を負って苦しんでいますが、どうか、信仰によって救い主の栄光を仰ぎ見ることができるようにお導きください。父と子と聖霊の御名によってお祈りいたします。アーメン
讃美歌21
278番、529番、532番、81番、88番
今回のテーマは苦しみから解放される救いについてです。例えば、皆さんが山に登って分水嶺に立ったとします。分水嶺とは、尾根とも言いますね。そこでは、右に降りるか、左に降りるかで、結果的にはまったく違う方向に行ってしまいます。まだ寒い今の時期に尾根道を西に向かって進みますと、右側は北の谷へ下りる暗い道、左側は明るい南の斜面を下る道になります。北側には、日があたらないので道は凍結していて滑落の危険があります。ところが、南の斜面は違います。太陽の光をうけていますので、明るいし、尾根がちょうど防壁のようになっていて北風はまったく当たらずに穏やかな陽だまりになっています。皆さんが分水嶺から下る道を選ぶとしたらどうしますか。わたしたちの多くは、南側の斜面の温かくて、安全な道を選ぶでしょう。苦しみと危険より、安全で楽な方を選ぶわけです。
しかし、イエス様だけは、危険で苦しい道を選びました。北側の危険な斜面です。そのことが描かれているのが今日の聖書日課です。それは、神がイエス様のために選んだ道であり、つまりヴィア・ドロローサ(苦難の道)だったといえるでしょう。わたしがエルサレムに住んでいた時に、市内に残されているヴィア・ドロローサという名前の細い道を歩いたことがあります。そこには、ステーションという個所があり、イエス様が立ち止まった個所に印がついています。苦しかったのでしょうね。しかし、この十字架の道は、イエス様が人類を死と罪と悩みから救うための苦しみの道でした。
わたしたちが当時のイエス様の弟子ならば、南側の安全な道を行きましょうと、提案するに違いないでしょう。でも、イエス様の人生観は違いました。それは、ラテン語の「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)のとるべき道だったからです。聖書の日課を読んでわかるように、当時の弟子たちは、「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)ということは全くわからず、イエス様の服が栄光に輝いたときに、「ここにいるのは、すばらしいことです」などと言って感激していました。イエス様が、人類の罪を取り去るための、犠牲の子羊、苦しみの子羊である「アグナス デイ」であることが理解できなかったからです。そう言う、わたしたちも、まだ十分には理解できていないかもしれません。
そして、今日の聖書日課は、教会の暦では、受難節が始まる前に必ず読まれる個所です。つまり、これから、苦しみの時、北側に下っていく時がはじまるよという予兆であり兆候なのです。病気にも予兆がありますね。今まで意識しないでできたことができない。なんとなく元気がない。あるいは、軽い運動でも息切れがする。それが病気の予兆です。戦争にも予兆があると社会学者は言っています。戦争の予兆とは、世襲政治家や資本家が台頭すること、権威への無差別的服従の強制がおこること、そして、反省のない政治家や国民の増加、迷信と決めつけ、権力者への民衆の陶酔、敵意と悪意の強制、特定のものを危険視する情報操作、これらが戦争の予兆です。旧安倍政権のときにも、それはありました。韓国料理店などが多い新宿の新大久保にいくと右翼の街宣車が大音量で「外国人は国へ帰れ」などと叫んでいたものです。今では、トランプ政権のアメリカが移民を排除したり、独裁者を擁護したりしていますね。これは、社会学的には、ヒットラーが台頭したころのドイツに似ています。戦争の予兆現象です。このように、病気にも社会にも予兆があるのです。しかし、多くの人は、無知だったり、無関心だったりします。
イエス様の弟子たちは、イエス様が、神の犠牲の子羊として十字架にかけられ、罪人として無残な死を遂げることに、無知でした。山の上で、イエス様の姿が輝いたのはその犠牲のことの予兆でしたが、弟子たちは、理解できませんでした。聖書は弟子たちの無知を隠すことなく記録し、同じく無知であるわたしたちへの戒めとしています。
彼らは、イエス様の十字架の処刑を見たときに、何故、先生は安全な道を選んでくれなかったのか、何故、長生きしてもっと自分たちを教えてくれなかったのか、と思ったかもしれません。しかし、やがて弟子たちも、イエス様と同じように、北側の危険で、冷たく、死と恐怖のあふれた厳しい道を恐れずに下っていきました。どうしてでしょうか。
それは、彼らが、「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)の本当の意味を理解したからです。逆に、「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)の本当の意味を知らないで、教会に来ている人の信仰のレベルでは、教会に問題があるとか、牧師が嫌いだとか思うと、自分にとって都合の良い、南側の坂道を下っていきます。その人たちは、その道の最後が滅びであるという予兆に気づいていません。旧約聖書には、神の御心ではなく自分の好みに従って誤った道を選んでしまった人々の悲しい結末がいくつも書かれています。サウル王、ロトの妻、箱舟を作ったノアをあざ笑った人々などです。
しかし、イエス様は、弟子たちに自分が受ける苦しみについて語りました。「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)のことです。そして、イエス様は夜を徹して祈りました。罪に縛られていて、罪のもたらす様々な欲望の奴隷になっているわたしたちの救いのために祈られたのです。その時、イエス様の服は真っ白に光りました。それは神の顕現の光でした。そこにモーセとエリヤの姿も現れました。これは救いの意味を示す予兆でした。ある聖書学者は言いました「モーセとエリヤは、新約聖書のイエス・キリストの栄光の先駆けとなる旧約聖書の証しの代表にほかなりません。」わかりやすく言えば、エリヤなどの昔の預言者たちはユダヤ人の心を、人間中心の考え方から天地創造の神に向けたのです。そして、モーセは出エジプトの出来事を通して、奴隷状態から解放されるという救いの意味を体験的に示したのです。
さて、わたしたちの人生を振り返ってみましょう。そこに、無意味に苦しみや、暗黒の北側の坂道があるわけではありません。聖書によれば、苦しみは、神が備えた自由への道なのです。出エジプトも40年かかった苦しみの道でしたが、最後に彼らは約束の地にたどりついて自由になりました。パウロも以前は人生の苦しみの意味を知りませんでした。しかし、パウロも、イエス・キリストが「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)であることを知ることで分水嶺、岐路に立ったのです。そして、パウロは「神の秘められた計画が、今や霊によって、キリストの聖なる使徒たちや、預言者たちに啓示されました」(エフェソ3:5)と語っています。そして、パウロが伝えるこの秘められた計画とは、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めた」(第一コリント2:2)ということなのです。「アグナス デイ」だけでよいのです。
ですから、キリスト教を一言でいえば、立派な生き方、敬虔な姿を身に着けるという道徳ではありません。キリスト教が教えていることは、「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)を信じることだけです。罪なき神の子羊イエス・キリストが、罪に苦しむわたしたちを救うために、自分を犠牲にして十字架を負い、十字架にかけられ、痛みを耐え血を流して、わたしたちの罪を贖ってくださったことを信じるだけです。
パウロも受難したイエス・キリスト、つまり「アグナス デイ」以外のことは何も知る必要がないと言いました。神の子イエス・キリストが罪を取り除「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)であることを知ることは、そのしるしである聖餐式を信仰によって受けることなのです。
ただ、当時の弟子たちも聖霊降臨を受けるまではこのことが理解できませんでした。ですから、わたしたちも心配しなくても良いのです。ペトロが山に登ったときには「アグナス デイ」(神の犠牲の子羊)の意味はわかりませんでしたが、後にペトロは、「主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」(ペトロ第二の手紙1:3)と語っています。信仰心を与えて下さるのも神なのです。
神と人間、この決定的な差に分水嶺があります。人間ならだれでも、日の当たる坂道を下っていきたいでしょう。それは人間の好む道です。試練や、氷や、非難や苦しみや、死を避けたいでしょう。しかし、それは神の道です。ヴィア・ドロローサであり、受難です。十字架です。自分で選んだのではなく神が選ばれたのです。「これはわたしの愛する子。選ばれた者」という声がしたのもこの山での出来事の時です。原典に忠実なある翻訳では、ここに「わたしの愛する子」という言葉が入っています。そして、聖書には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子としてとりあつかっておられます。」(ヘブライ人への手紙12:6以下)とも書かれています。そして、山に登ったペトロも、後には「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ、これこそ神の御心に適うことです。」(第一ペトロの手紙2:20)と書いています。苦しみは救いへの入り口だと、ペトロはついに理解できたからです。そして、聖書では、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、あなた方は喜びなさいと教えられています。救いが近いからです。苦しみを通して、イエス様と結び付けられ、罪から救われるからです。罪から救われれば、いままでどうしてもできなかったこと、これが可能になります。それはとっても感謝すべきことです。アーメンではないでしょうか。このことを深く覚えて、感謝のうちに今年の受難節を迎えましょう。