4月6日菊川ルーテル教会伝道説教
4月6日 菊川教会礼拝
福音書日課:ヨハネ福音書12:1-8 説教題「人間の考えと神の考え」
特別の祈り
父なる神様、あなたの御子イエス・キリストは、永遠の喜びの前に苦難の道を選び、栄光の前に十字架の屈辱を選ばれました。どうか、わたしたちの心にも十字架を刻み、御子の苦しみと喜び、屈辱と栄光を、共有させてください。父と子と聖霊の名によってお祈りします。アーメン
讃美歌21
57番、449番、300番、81番、88番
今年は4月20日がイースターです。わたしが1973年の4月22日のイースターに洗礼を受けてから52年になります。その間、いろいろなことがありましたが、洗礼を受けていてよかったと思います。今から500年くらいの前のルターの時代にはさらにいろいろなことがあったようです。悪魔の試練というものです。普通なら絶望してしまうのですが、ルターは、そんな時にも、自分が洗礼を受けていることを心の支えにしていました。なぜ、心の支えになるのでしょうか。それは、洗礼が人間を苦しめる罪と死からの解放の約束だからです。
さて、今日の聖書個所を見ますと不思議なことがおこりました。これは、イエス様の十字架の刑罰の前、そのあとの復活の前の話です。ですけれども、それは、イエス様の罪の赦しのための犠牲の死と、新しい命へのよみがえりである復活の前に起こった大切な出来事です。今月の機関紙「るうてる」に焼津の栄光教会の伊藤先生の説教が同じ聖書個所で出ています。これは、イエス様の十字架の死の準備として香油が注がれたことを説いていますね。やはり、これもイースターに向けた一連の出来事の一ついです。ただ、私達は香油の匂いに注目するだけではなく、その時の、弟子たちの反応に注目しなければなりません。ヨハネの福音書では、ユダがマリアの塗った香油について怒りました。他の福音書を見ますと、ユダとは書いてありませんが、「そこにいた何人かが憤慨した」とマルコ福音書には書いてあります。マタイ福音書には「弟子たちは憤慨して言った」と書いてあります。
何で、彼らは憤慨したのでしょう。それは、イエス様に注がれた香油が大変高価なものだったからでした。これを売れば、300デナリオンになったからです。当時は一日働いた分の給与が1デナリオンくらいですから。現在の給与に換算すれば、この香油は、250万円か300万円くらいする高価なものだったわけです。そして、ユダや弟子たちの意見では、これを売って貧しい人たちに施すべきだったのに、無駄にしてしまったということで、彼らは腹を立てたのです。ここに弟子たちの「人間的な考え方」がはっきり表れています。
わたしが、香油の匂いではなく、弟子たちの態度に注目するかというと、この態度、この人間的な態度にこそ、人間を救いから遠ざける罪が含まれているからです。聖書は、過去の出来事を伝えているだけではなく、人間の罪の問題を扱っていますね。では、香油を売ってそのお金を貧しい人にあがることのどこが罪なのでしょうか。第一には、この女の人の香油は弟子たちの香油ではないことです。貧しいマリヤが高価な香油を持っていたのは不思議なことですが、それはマリヤが売春婦だったからでしょう。ただ、イエス様はそれを知っていても、汚れた金で買った香油だからいらないとは言っていません。それに、お金の無駄使いだと言って憤慨する弟子たちに、優しく諭しています。つまり、この香油は、イエス様の埋葬の準備のためなのだというのです。ですから、イエス様は、この香油の出来事が決して偶然的なことではなく、神様のご計画で、イエス様の死と復活の準備だという、神の側からの視点を持っていたのです。イエス様が「神の子イエス・キリスト」と呼ばれたのは、スーパーマンのような無敵の人だったからではありません。イエス様が神の子なのは、どんな時にも、神様の考えを持っていたからです。一方で、弟子たちは「聖霊降臨」が起こる前までは、いつも「人間的な考え」に縛られていました。これは罪が生み出す考え方です。
そうした、「人間的な考え」を聖書からみてみましょう。弟子たちはガリラヤ地方の田舎の出身でしたが、当時の大都市であるエルサレムに行ったときに、そこにそびえたっていた神殿を見て感激しました。これは、ピラミッドのように古代の七不思議に数えられるような巨大な建物でした。土台は縦横500メートルくらい、高さが70メートルくらいあって白い大理石の上は金箔で覆われていたというのです。建物は東に向いていましたが、朝日が当たると、まぶしくて見ていられなかったと伝えられています。エルサレムに現在残っている神殿跡は、後に再建されたものの土台だけです。しかし、わたしがエルサレムに住んでいた時に、嘆きの壁という場所の奥にあるトンネルの中で、昔の神殿の土台石の一つを見たことがあります、それは長さが10メートルくらいあって、重さは400トンくらいだそうです。ですから、巨大で美しい神殿を見て、弟子たちが感動したのも無理からぬことです。しかし、「神の考え」を持ったイエス様の意見は違いました。「あなた方はこれに見とれているが、一つの石も残らない日が来る。」(ルカ福音書21:6)そして、本当にそのようになったのです。物事の外見だけにとらわれていた弟子たちの考えは「人間的な考え」でした。
あるいは、人々が子供を祝福してもらいたいと思って連れて来た時に、弟子たちは彼らを叱りました。子供なんかは伝道の邪魔だという「人間的な考え」があったからでしょう。現代の教会でも似たような人間的な考えがあります。それは、教会に新しい人が来たら自分の礼拝の邪魔になるという考えです。昔から知っている人たちのグループの中なら静かに礼拝できるけれども、知らない人がいると不快であるという「人間的な考え」です。イエス様はこうした人間的な考えに対して、「子供のように新しいものを受け入れる人にならなければ天国に入ることはできない」(マルコ福音書10:13)と諭しています。このほかにも、「人間的な考え」の指摘は聖書にたくさん見られます。ただ、それを読んで感心しているだけでは不十分なのです。聖書の教えは、わたしたち自身が、自分の人間的な考えに気づくように教えていると思います。それだけでなく、「神の考え」について教えています。
例えば、わたしたちは、人生の困難に遭遇して「もうだめだ」と思うことがあります。でも、イエス様は「人間にはできないが神にできないことはない」(ルカ福音書18:27)と諭しています。また、人生には耐えられないことも起こることがあります。イエス様の信仰を受け継いだパウロは、「神は耐えられない試練にあわせることはない」(第一コリント10:13)と教えています。
では、どのようにしたら、「人間的な考え」から幸せな救いに満ちた「神の考え」移ることができるのでしょうか。それには、二つの段階があります。その第一は、水による洗礼です。これなしに救われることはありません。水の洗礼の意味は、古い罪に支配された自分に死ぬことです。教会には、どこの教会にも、洗礼を受けた人、つまり、死んだ人がたくさんいます。菊川教会にもいます。でもその状態は、あの香油事件で憤慨した弟子たちと同じレベルの信仰でしかありません。第二の段階は、霊による洗礼です。ルカ3:16に書いてあります。ヨハネは水の洗礼だが、イエス様は水と聖霊による洗礼だということです。これは、使徒言行録19:1節以下に詳しく書いてあります。パウロがエフェソに行ったときにそこの弟子たちは、水の洗礼は受けているが、聖霊の洗礼は受けてなかったのです。つまり、古い自分に死んだだけで、生まれ変わって新しく誕生してはいなかったのです。現代の教会でもこのような信徒がたくさんいます。その信徒たちの考えは、「神の考え」ではなく「人間的な考え」です。そこで、パウロはイエス様を信じるように教えると、聖霊がくだり、彼らは本当に救われました。では、誰が聖霊の洗礼を受ける人でしょうか。それは、自分が「人間的な考え」に固まっており、神様に愛される資格なんかないと思う人、自分には生きていく価値なんかないと思う人、いくら罪を反省しても同じ失敗を繰り返してしまう弱い人です。日本基督教団讃美歌514番に「弱き者よわれにすべて任せよやと主はのたもう」(現代語訳:弱い人よ、わたしにすべて任せなさいと、主はおっしゃっている)とあります。この讃美歌の意味がわかる人には聖霊の洗礼が与えられます。第二の洗礼です。イースターを迎えるにはこれで十分です。おそらく、香油を注いだマリヤも、自分がどんなに罪深くても、イエス様は救ってくださると信じていたのでしょう。