印西インターネット教会

「毒と善悪の判断」

聖霊降臨後第7主日説教、「毒と善悪の判断」      マタイ:13:24-35

 

イエス様の喩話には深い意味があります。毒麦に関する教えには、その裏に終末という考えがあるでしょう。終末とは世の終わりのことです。ただ、わたしたちには常に現在を出発点にして考える傾向があります。イエス様は終末を出発点にして考えなさいと教えているように思えます。でも、そんなことは経験していないので無理です。だから、イエス様は譬え話で説いているのです。終わりから始める方法です。さて、農業をやっていて、現在、目の前に毒の麦が生えていたら誰でも抜きたくなります。それは現在困るからです。また障害物だからです。けれども、イエス様は、終わりの時を意識して、ひとまず手を休めて、考えなさいと教えているのです。

しかし、ここで毒とは何でしょうか。英語では毒一般のことをポイズン、植物や動物の毒はトクシン、毒蛇などの毒はヴェノムと言います。フグがトクシン、マムシの毒がヴェノム、河豚の毒がトクシンです。ただ、毒は特殊なものではないのです。塩でもある面は毒であって大量にとると死にます。昔の人で、醤油などを大量に飲んで自殺した例もあるようです。すべてのものにある程度の毒性があるといえます。ですから、フグの毒というのもフグが毒をつくるのではなく、フグが餌にしているプランクトンに含まれている微量な毒素を自分の体内に蓄積しているそうです。

さて、今日の福音書にある、毒麦とは何でしょうか。これはイネ科の雑草だそうです。そのままでは毒性はないのですが、麦と違ってある種のカビ菌に感染しやすく、その結果アルカロイドという麻薬のような毒素を持つわけです。穂が出ていないときには麦と似ているので見分けがつかないのです。ですから、イエス様の譬えでは、穂が出てきて区別がはっきりしている時、つまり世の終わりまで毒麦を抜くのを待ちなさいというのです。この背景として、イエス様が意味していることは、物事の善悪の判断は人間にはできない段階があるという事ではないでしょうか。

イエス様が活動していた二千年前の時代も、弱い者や地位のない者には、苦しみの連続の時代でした。そういうあらゆる心配や困難にある人々に、イエス様は、天の国の福音を説いて励ましました。馬鹿な話だと呆れた人もいたでしょう。現実とはあまりにもかけ離れていたからです。極楽とんぼ思考と批判する人もいたでしょう。そこで、イエス様はこの福音の教えを譬えで話されました。譬えとは何でしょうか。ある学者は、「譬えを客観的に解釈するのではなく、自らの主体自身が巻き込まれ、対決されて初めて譬えが動くのである」、と語っています。フーッ、学者のいう事は難解ですね。つまり、こういうことではないでしょうか。実存主義ですよ。ゴメン、これも理解不能の表現でした。自分流に簡単に言えば、いまここであなた自身が、こんな状況に置かれたらどうしますかということですヨ。譬えのなかで、自分が巻込まれてくる、まさに生きたドラマです。

閑話休題。ここで、その一例として、王様と三人の王子様の譬え話を聞きましょう。これは、自分が若いころ、アメリカの教会学校の先生が子どもたちに話していた例話です。皆さんはこの話に巻き込まれるでしょうか。昔、ある王様が息子である三人の王子たちに言いました。「わたしももう年だ、そこでお前たちの一人にこの王国を継がせたいが、こうすることにする。3年以内にわたしが気に入った城を造った王子を、次の王にしよう。」そこで、長男のテリット(英語では言う人の意味)はその日から多くの国民に語り始めました。こんなに立派な城を作って自分こそが王位継承するのだと。二男のシンキット(英語では考える人の意味)は、思慮深い人でした。その日から国中の賢い者を集め、様々な城の計画を考え始めました。三男のドーイト(英語では実行する人の意味)は次の日から技師を集め、労働者を集め、基礎作りを開始しました。3年たちました。王様は3人の息子を呼んで尋ねました。「約束の城はできたかね。」長男のテリットは言いました。「国中を回ってこの素晴らしいニュースを伝えましたが、まだ完成していません。」では、シンキットはどうだ。彼はいいました。「なかなか良い計画を考えられなくて、今も考え中です。」王様はがっかりしました。最後にドーイトに聞きました。ドーイトは言いました、「王様の命令を聞いた次の日から工事に取り掛かり、ついに完成しました。」王様は喜んで言いました、「でかした、よくやった、お前を次の王にする。」さて、この譬えで、わたしたちはどのように巻き込まれているでしょうか。どう判断するでしょうか。「わたしの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)そのようにイエス様は教えています。

今日の個所で、イエス様は良い種を畑に播いた譬えを話しました。麦は生えてきたけど毒麦もサタンによって蒔かれ一緒に成長してしまったのです。ドイツのルーテル教会の牧師の息子だったニーチェは、ある程度は神学の素養があったと思われ、「天にまで達する大樹は、地獄にまで根を張っている」と述べています。これは、大切な視点です。生は死との関連で生であり、救いは滅びとの関連で救いなのです。ただ、人間には良い麦だけを成長させたい願いがあります。良い面だけを見ていたいのです。ところが不純物というか、邪魔ものが混じってしまったわけです。信仰の世界には、必ずサタンの種もまかれているわけです。さあ、どうしようと心配するものがでます。以前に聞いたことですが、救世軍(社会に奉仕するキリスト教の団体)の士官(プロテスタント教会の牧師と同じ)の家庭で育った娘さんが、自分の罪深さに絶望して自殺してしまったそうです。悲しい判断でした。不純物が赦せなかったのでしょう。さて、イエス様の例話では、まず、良いものと悪いものが混在していることがわかったという事が強調されています。わたしたちの人生も同じです。社会でも教会でも個人の生活でも良いものと悪いものが混在しているのが現実です。100パーセント・ピュアなものなんてありません。わたしたちもクリスチャンとして生きながらも、虚栄心だとか心の冷たさ、信仰心の弱さ、自己中心の性格など、悪いもの、肉的なものが混じってしまいます。(だいぶ巻き込まれてきましたね。)成長過程では良い麦と毒麦が区別できない(葉っぱだけで、穂が出ていないので)ように、自分の中の善と悪も区別、判断できないかもしれません。宗教改革をおこしたルターは、「わたしたちは聖徒であり、同時に罪人である」、と教えました。彼は判断できていたのです。さらに言いました、「もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪ではなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人をお救いになりません。」自分の中の毒麦を判断しなさい、という事です。ある学者は書いています。「サタンの種を人間的に抜こうとしてはいけない。」これも正解ですヨ。つまり、自分の悪を善に変えられると勝手に判断してはいけないんダナ。悪を悩んでもいけない。神の絶大な恵みを知ったからには、勇気を持って罪を見つめることが出来るのです。つまり、恵みを知ること、神の無条件の愛を知ることは、一つの終末なのです。天と地が一直線に連結するときです。「天にまで達する大樹は、地獄にまで根を張っている」と実感する時です。それはまた喜びの刈り入れの時でもあります。何故なら、それまでは混在していて判断できなかったものが、明確に区別されるからです。自分は善人と思っていたが、実は毒麦だった。(さらに巻き込まれてきましたね。)こう判断できるのは良いことです。ここでは自分自身が麦畑になっているのです。自分は悪いことをしていないのではなく、何一つ神にお仕えできていない者です。自分のためにしか生きてこなかった者です。いや、神云々というのは、一時ストップしましょう。神がわたしたちに与えて下さった親はどうでしょうか。家族はどうでしょうか。友人たちはどうでしょうか。社会貢献はどうでしょうか。自分は良麦ではなく毒麦ではないか。しかし、その毒麦をイエス様は忍耐して下さっている。毒とは罪でもあります。そして、罪の毒が取り除かれる時が来るのです。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:5)その後で、イエス様は、三年も実のならないイチジクの例話を話されました。主人は実がならないから切ってしまいなさいと言いました。園丁(ガーデニングをやっている、植木屋さんのような人)は言いました「今年もこのままにしておいてください。肥料をやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。」(ルカ13:8以下)この例話で園丁とは誰でしょうか。実のならない木とは誰でしょうか。(ここで本当に巻き込まれますね。)それだけでなく、自分がその場面に置かれて初めて、救い主イエス・キリストの忍耐と贖いの喜びがみえてきます。実はそれが方向転換です。キリスト教では、人生の見方が180度変わることを、悔い改めと言います。(普通に考えられている「反省」とは違います。)そして、この悔い改めこそが終末の裁き(収穫の時)からの救いなのです。

イエス・キリストを救い主として受け入れるとどうなりますか。スゴイですよ。何故なら、人の眼にはどんなに毒であり無益であり、無駄に見えようと、神は、その毒を受け入れ、成長の薬として変えてくださるからデス。これは古い自分に死に、新しく生まれでることです(キリスト教用語では、新生)。

一年前に、京アニの放火殺人事件がありました。自分が殺された36人の親の一人だったら、犯人の青葉容疑者がどれほど憎いことでしょうか。断腸の思いです。その気持ちは本人でなければわかりません。わたしたちもそのような残忍性をゆるせません。しかし、キリストの救いは、最低の人間、毒の塊のような者が、自覚し、自分が「ほんものの罪を負う人」だと判断できるようになったときに、実現するのではないでしょうか。それ以外の救いは幻想や甘い夢にすぎません。

この毒はどこにでもあるものです。青葉容疑者の毒麦はわたしの毒麦です。36人を焼き殺した青葉容疑者が酷悪犯罪者で、比叡山焼き討ちで、婦女子を含む数千人を焼き殺した織田信長が戦国時代のヒーローなのはどうしてなのでしょうか。メディアが宣伝する人間の判断は正しいのでしょうか。

罪の底に沈み、被害者の最後の苦しみや、家族に与えた甚大な打撃と、痛みもわからないような冷酷な心を持った者が、悔い改めの判断に導かれ、神の愛を受け入れることがイエス様の毒麦の譬えの目的ではないでしょうか。犯罪者の生い立ちを調べてみると分かることですが、青葉容疑者だけでなく、多くの冷酷な犯罪者は、幼少期から家族の問題などで、愛のない残酷な境遇に置かれてきた場合がほとんどです。自分を守ろうとするあまりに、善悪の判断がストップしているのです。その解決法は一つです。悔い改め、方向転換し、神の愛を信じることです。神の愛を信じた時点が、既に、終末であり天の国です。そして、その全ての内容が、イエス様の十字架の死と復活の命の出来事に示されています。人間の持つ毒、憎しみや怒りや敵意、これらをイエス様は知っていましたが、排除はしませんでした。怒りに対して怒る者は同罪です。殺人者を処刑するのも同罪です。毒麦を抜く者も毒麦です。そうではなく、イエス様は、人々の憎しみや嘲りを忍耐し、決して逃げずに受容し、十字架上で殺害されたのです。しかし、そのことを目撃した弟子たちも、それまでは心のなかにそれぞれ毒を持っていましたが、悔い改めました。決定的な方向転換が起こったのです。迫害者パウロも殺人者でしたが、悔い改めて使徒となりました。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(マタイ13:30)イエス様は刈り入れの時、終末のとき、つまり悔い改めの時を、神の愛が示される時にたとえたのです。「アメイジング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートンもそうでした。彼は奴隷船の船長であって、残酷な人でした。しかし、その彼は、遭難と試練の中で悔い改めて、物事の善悪の判断ができて、牧師にまでなりました。彼にも、終末の時は来たのです。いわば良い麦であるイエス様が毒麦であるわたしたちと共に歩み、真実の悔い改めに導いて下さり、神の愛を知り、物事の善悪の判断ができるように導いてくださるのです。それは終末であり、収穫の時でもあります。印西インターネット教会の目的も同じです。この神の終末に向けて、恵みの福音を告げていきたいのです。

 

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