閑話休題

京アニ放火殺人事件の犯人を赦せますか

ちょうど一年前に京都で悲惨な事件が起こりました。わたしも学生時代に家出して、京都に一年ほど住んでいましたので、京アニがあった周辺の土地勘はあります。京都駅の北側は、どこに行っても賑やかな観光地でしたが、京アニの建物があった南側は、伏見の方を除いて比較的静かな住宅地でした。青葉真司容疑者の憎しみをもった行動によって、36人が死亡し、30人以上が重軽傷を負ったわけです。この事件を振り返ってみた時、キリスト教の教えでは、青葉真司容疑者を赦すように教えているのでしょうか。それとも、神の裁きに委ねるべきなのでしょうか。自分が、尊い命を奪われた犠牲者の方の親だったらどう思うでしょうか。赦せるのでしょうか。テレビでも、家族の方々の思いを報道していましたが、その重い喪失感と悲しみを誰が埋めてくれるのでしょう。青葉真司容疑者を死刑にしたら気が済む問題でしょうか。事故で死んだのなら、あきらめがつくかもしれませんが、加害者がいるとなると違います。わたしが、この点で心に止めているのは、ダビデ王の最後の言葉です。ダビデは一介の羊飼いから、立身出世してイスラエルの王にまでなった人ですが、その生涯において、息子のアブサロムの反逆や、腹心の裏切りなど、辛酸をなめたことがあります。ダビデは、詩編23編を読めばわかるように、深く神を信じていました。また、詩編51編に書かれているように、自らの罪を深く自覚していました。反乱によって、人々から罵倒され、みじめな姿でエルサレムを撤退するときにも、「主がわたしの苦しみをご覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくれるかもしれない」(サムエル記下16章12節)、と語っています。そして、様々な試練を乗り越え、生涯の終わりが近づいた時、ダビデは息子のソロモンを呼び寄せ、軍事指揮官だった部下のヨアブについて指示しています。「あなたは知恵に従って行動し、彼(ヨアブ)が白髪をたくわえて安らかに陰府にくだることをゆるしてはならない。」(列王記上2章6節)聖書はダビデのこの言葉を咎めてはいません。「ゆるしてはならない」という言葉もゆるされているのです。京アニの犠牲者の方々の家族が「ゆるせない」、と思う事もゆるされています。こうして考えると、世の中には、「ゆるしてはならない」という事柄が実に多くあります。1960年代の、北アイルランド紛争では、IRAというテロ集団やそれと対抗する勢力が互いに攻撃し合い、1998年の和平合意ができるまで、数千人の犠牲者を出しました。勿論、京アニのように焼死した人たちもいたわけです。それよりも前の太平洋戦争末期では、東京大空襲がありました。戦争末期では、広島と長崎の原爆投下が強いインパクトを与えていますが、東京大空襲も死者数からいえば、同程度の惨事でした。そうした攻撃命令をくだした当時のアメリカ大統領トルーマンは、青葉容疑者より正しい人だったのでしょうか。彼は人種差別団体だったKKKに所属していたこともあり、東洋人の殺害に良心の呵責を持っていなかったようです。京アニの場合にも、逃げ場がなかったことが犠牲を大きくしたのですが、東京大空襲でも先ず、ドーナツ形にナパーム弾(焼夷弾)を投下して、逃げ場をなくしたうえで、中の地域の住民を焼き殺したのです。犠牲者は10万人以上でした。わたしも、40年ほど前に、東京築地にある聖路加国際病院で研修した際に、東京大空襲の生存者であった老人から詳しい話を聞くことができました。当時、70歳くらいだった彼の顔の半分は焼けただれていました。こうして考えると、米軍の残酷さを「ゆるしてはならない」という気持ちになるのも当然です。でも、日本側はどうなのでしょうか。太平洋戦争当時、アジア諸国内での日本軍による民間人の犠牲者は、どのくらいでしょうか。東京空襲と同規模の10万人くらいでしょうか。とんでもない。中国では2000万人、ベトナムは200万人、フィリピンは111万人、インドネシアは400万人です。朝鮮半島は統計では20万人となっていますが、おそらく、人の死が死と考えられていない情況だったので、数字が正確ではないのでしょう。これでわかるように、日本軍は海外に進出し、地域の人たち合計3000万人近くを、射殺し、爆死させ、毒殺し、焼き殺してきたのです。個人による殺人はゆるされないが、戦争はゆるされるのでしょうか。そんなことはないはずです。それでも、戦争が終わった時に、中国に残留した数百万の日本人たちが、無事に帰国できたのは、クリスチャンだった蒋介石が「報復してはならない、敵を赦しなさい」と厳しく命じ、違反者を罰したからだと言われています。こんな悲惨な情況の中でも、赦しはあったのですね。聖書では、先のダビデのように、「ゆるしてはならない」という言葉もゆるされているのですが、イエス・キリストは赦しを身をもって示しました。十字架上の救い主は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と語ったとされています。この部分は原典が不確かという事でカッコに入れられていますが、たとえこれが後代の付加だとしても、イエス様から教えられた神の赦しが、初期のキリスト教会の中心的信念だったことは間違いありません。旧約聖書にも、「憐みと赦しは神のもの。わたしたちは神にそむきました。」(ダニエル書9章9節)と書いてあります。「ゆるしがたきを」ゆるせるときがきたら、それは神の世界に一歩を踏み入れた事なのです。イエス様の弟子たちはそれを経験しました。だから、あの迫害者のパウロすら受け入れて、大伝道者としたのです。ただ、何度もいいますが、「ゆるさない」という自由も聖書は与えています。それは、神が愛と自由と平等の神だからです。

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