今週の説教

「捨ててもいいよ」

聖霊降臨後第8主日説教 「捨ててもいいよ」       マタイ13:44-52

こんなことを書く自分は、なかなか捨てられない人です。過去の思い出は捨てられないし、広告の紙一枚でも捨てにくい人です。でも、捨てることには深~い意味があります。それを、聖書から学びましょう。

聖霊降臨後第7主日の旧約聖書の日課は列王記です。ここに、ダビデの子ソロモンが王位継承したことから書かれています。ダビデと言えば、巨人戦士ゴリアテを石投げ器で倒した英雄ですし、ソロモンと言えば、知恵者です。ソロモンは知恵だけでなく、イスラエルに大神殿を建てた王としても有名です。頭が良くて力があり、おまけにイケメンでした。それに、彼は神の前に非常に謙虚でした。「わたしは取るに足らないもので、何をしたらよいのかわかりません」、と祈ったらしいのです。普通なら、ゴーマンになってしまうのに、スゴイと思います。そんな人になりたいです。(無理!)

また、日課のローマ書を見てみましょう。8章26節には、パウロは自分が「どう祈るかを知らない」弱い存在であると、述べています。ソロモンにも似て、謙虚ですね。パウロの外見はイケメンとは全く別次元の人だったらしいですが、頭脳の方はノーベル賞レベルだったようです。現代に生きていたら、ノーベル平和賞は間違いないでしょう(笑)。そのパウロが、自分がたとえゼロであっても、必ず救われることを確信したのです。自分の力なんかいらない。いや、これはむしろゴミなんだ。ただ、ゴミのかたまりに等しい自分だからこそ、偉大な神の愛に感謝します、と言っているわけです。

パウロも感じた、神の愛の現実存在である天の国を、イエス様はマタイ13:44以下で教えています。最初の譬えはどうでしょう。天の国は、畑の宝のようなもので、全財産を売り払っても買う価値がある。ソリャーそうです。宝の山を買えるなら買いますョ。宝探しは面白いものです。アメリカに留学していた時に、野原で金属探知機を使って宝探しをしている人を見かけたことがあります。何を探しているのかを聞いてみたら、古い銀貨などでした。ただ、それに比べるとイエス様の譬えに出て来る畑の中の宝は、比較にならないほど莫大な財宝でしょう。このためには自分の持っている全財産を捨ててもいいと思うほどだというのです。いわば、お宝発見ですね。ただ、お宝というものには、いつもリスクがあります。100万円だして買った絵が、たった5千円だったらガッカリするでしょう。隠された宝は、それが本当に価値あるものかどうかわからないから、リスクがあるのです。イエス様の畑の宝は本物かどうか判断しにくいのです。

次の譬えにある、高価な真珠の場合にも、鑑定できれば安心ですが、偽物に全財産をつぎ込むのは危険です。ただ、イエス様の時代に、巨大な天然真珠は目玉が飛び出るくらい高価なものだったのでしょう。全財産を捨てても惜しくない真珠のようなもの、それが神の国だと、イエス様は教えたのです。

天国を手に入れると、全財産を失うので、結果的には貧乏になってしまいます。友人たちに、「イヤ―、最近、天国を買っちゃてさア~、文無しになったよ」、と言っても笑ってくれません。ただ、聖書では珍しい事ではありません。パウロも、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました」(フィリピ3:8)、と述べています。パウロも全財産を使い果たした人だったのです。

最後の漁業の譬えは終末論のようです。網を引き揚げるというのは、農業の収穫と同じで、終わりの時の象徴です。その時に、良い魚も悪い魚も混じっています。神の天使が、良い魚、悪い魚を見分けて分別するというのです。これが、前の譬えと関係あるわけですヨ。前の二つの譬えで、全財産を神の国のために売り払った人は、命よりも尊い天国を実際に発見したという事です。この世から見たら、無一文であり極貧かもしれません。ただ、この世でわたしたちが価値あるものと思っている事柄は終末の時に、焼かれて無になるものにすぎません。わたしも仕事柄、火葬場に行ったことも数多くありますが、職員の人が焼け残った骨を得意げに説明してくれても、空しいものです。骨は骨に過ぎません。コヘレトの言葉に「見よ、どれも空しく風を追うようなことであった」(コヘレトの言葉2章11節)、とあるように、人生の終着駅は「空なるかな」なのです。

ただ、イエス様の教えた天国は誰にでもわかるものではありません。隠されているからです。まして、価値の鑑定などができるわけはありません。だから、リスクがマックスなのです。ただ、どうでしょうか。もし自分が、医者から余命宣告(終末)を受けたとしたら、病気回復可能な新薬を飲むリスクを取らないでしょうか。どうせ、死ぬのなら、「イッチョ・ヤッタル!」、と考えないでしょうか。考えると思います。自分はヤリます。運命の前に、ハイ・リスクなんて文句を言っている場合ではないのです。実は、それが終末です。人間の命には、既に余命宣告がなされています。終末はすでに決まっています。「こうして、人の一生は120年となった。」(創世記6章3節)

使徒言行録17章25節には、「全ての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、万物を造られた神です」と書いてあります。わたしたちは命を自分で持っていると考えていますが、間違いです。聖書では命は神よりの賜物です。プレゼントなのです。恵みとも言います。そして、そして、この古い命、最長でも120年の命と交換に、イエス様という救い主を通して、神はさらに豊かな賜物「永遠の命」を与えて下さろうとしているわけです。

しかし、捨てきれないのです。捨てていいよと、なかなか言えないのです。パウロも以前はそうでした。彼の地位は高いものでした。学問水準もエベレストなみの最高峰でした。でも、彼は捨てました。リスクを恐れませんでした。イエス・キリストという無名の救い主が説く、永遠の命に賭けてみたのです。そして、2千年たった今でも、パウロはわたしたちに語り続けています。「捨てていいよ。」そうです、長くても120年の古い命はもう必要ないのです。火葬場の灰にしかならない人生に未練はありません。神の与える永遠にこそ、本当の価値があるのです。天国と言ってもいいでしょう。そして、永遠とは、時間の長さだけではなく、まさに神のことなのです。神とは、愛であり、命であり、光です。この、愛と光と命のために、リスクを取ることは悪くありません。それは畑に隠された宝を買うために全財産を捨てることと同じです。

畑に隠された宝とは、まさに神様だとイエス様は言いたかったのでしょう。神社や神殿に神がいるわけではないです。神こそ永遠の命です。この永遠の命は、誰にでも与えられます。神は、遠くから「オーイ、そこのボケナス~!!」と命令する髭爺さんみたいなヤボなものではないです。神は、わたしたちを生かすエナジーのような人格的存在です。物ではないです。苦しく辛い時に、優しく励ましてくれる、人格的存在のありがたさを、皆さんも経験したことがあると思います。イエス様が伝えた、隠された宝のような神こそ、人格的であり、魂を揺さぶる、永遠のエナジーのような、愛であり光であり命である神なのです。これは、もう、スーパースターと言うしかないです。

この神を知る時、価値観が変わります。今まで大切だったものがそうでもなくなるのです。断酒会などで、ハイヤーパワーを信じなさいなどと言うのもこれですね。それが、酒であれ、薬物であれ、悪い生活習慣であれ、自分をとりまく環境であれ、古いものは「捨てていい」と思えるのです。パウロがそうでした。また、イエス様の弟子たちがそうでした。ルターもそうでした。ナイチンゲールもそうでした。マザーテレサもそうでした。次は、わたしたちの番ですネ。「捨ててもいいよ」と言えるのは、失う事ではなく、得る事なんだと、イエス様は優しく教えてくださっていると思います。まさに、イエス・キリストこそ、神の愛のエナジーを実証されたかたです。それも、捨てることの極限である十字架上で、命を捨てた方だったからです。

わたしたちには、失うことを恐れない生き方や、イエス様のように自分の命を喜んで与えるような生き方を自分自身ではできません。これは神の働きです。でも神には不可能がありません。「わたしは取るに足らないもので、何をしたらよいのかわかりません」、とソロモンのように神にツイッターしたらいいわけです。神は聞いてくれます。小さな呟きでいいのです。毎日の生活の中で、これは捨てたいと思うものが、見えてくるはずです。その時、自分は無力であるという、自覚が大切です。パウロもソロモンもその自覚を持っていました。だから、何を捨てたらいいのかという、神の知恵が与えられたのです。「捨ててもいいよ」、そしたら、楽になり、神の永遠のエナジーで満たされ、天国は、あっちにあるのでも、こっちにあるのでもなく、自分のハートのど真ん中にあると、実感するのです。捨てない限りは、新しいものは入ってきません。手放さなければ、新しいものは握れません。だから、神は終末を定め、リスクを恐れないように励ましておられるのです。自分にとって、害となる古いものを捨てましょう。捨てても、悪いことは何も起こりません。人格的な愛と命と光としての神の存在エナジーが共にあるようになるからです。だから、「捨ててもいいよ」、そこにあなたの天国があるはずです。

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