閑話休題

空間有美

車の運転中だったので詳しくはわからないのですが、東北地方の盆栽の専門家が、風雪にさらされた形の美しい松の盆栽を育てていました。その家に代々伝わっている盆栽手法では、松の種から実生で育てるという気の長い話です。ただ、その技法の中では、枝を折ったり皮をむいたりして風格を出していくわけです。素人がやったのなら、枯れてしまったり、ひどい形になるでしょう。やはり、自然の中にある松の造形を見て知っているからこそできる業です。自然が作った空間を模倣して盆栽に仕立てていくわけです。一言でいうと、空間有美だそうです。うまく表現したなと思いました。そこで思い出したのは、種田山頭火の「まっすぐな道でさみしい」、という句です。昨今の日本では、そうした価値観が忘れられ、欠点のない物とか、ただ元気がいいもの、優秀なものが優先的に尊重されがちです。一人孤独に突っ張っているのは馬鹿で、組織におもねて忖度する風潮が支配的です。とても、残念です。風雪に耐え、枯れそうで枯れずに生きている松、それに似た歴史の一コマを聖書に発見しました。国破れて山河あり。今から三千年近く前に、ユダヤ人は戦争に負けて、バビロンに民族ごと捕囚されました。盆栽ではなく、民族そのものの枝が折られ、根が抜かれ、皮が剥ぎ取られたわけです。そして、彼らがやっと帰国できたときの喜びが、イザヤ書に書いてあります。この箇所の題は帰還の約束となっています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」(イザヤ書40章3節以下)ユダヤ人たちの歴史はまさに苦難と悲劇の歴史です。しかし、まっすぐではない道にも、いやまっすぐではないからこそ、神が備えた美を見出せるのではないでしょうか。アインシュタイン、マルクス、フロイトをはじめ、人類史に貢献した多くの学者はユダヤ人です。コロナ禍も、その他の自然災害も、歴史の一コマとして、わたしたちの心のひだに、悲しくも美しい刻みをいれるのかも知れません。今回は、空間有美について黙想してみました。

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