今週の説教

説教「人生にサヨナラしたい時に」

聖霊降臨後第13主日説教「人生にサヨナラしたいときに」  マタイ18:1-14

今日の旧約の日課には「エレミヤの苦しみと神の支え」という題がついています。預言者エレミヤにも希望がなかったのですね。エレミヤは預言者であり、神を心から信じてはいたのですが、この地上で生きている限り悩みに押しつぶされるような時があったのです。自分が生まれなかった方が良かったと彼が感じたと書いてあります。シェークスピアとか、ギリシア神話にもこういう嘆きがでてきます。まして、今の世界各地で、コロナで家族を失い、仕事を失った人々の嘆きはどれほどのものでしょうか。生まれなかった方が、苦しまなくてよかったと思うのももっともです。

でも本当にそうでしょうか。わたしたちが避けようとしている「問題」は本当に問題なのでしょうか。エレミヤは悩みの果てに、神の言葉を食べて元気がでました。そして「わたしはあなたと共にいてあなたを救い出す」という神の言葉を聞き、それが本当に生きる糧となったわけです。悩みが深く、人生にサヨナラしたい気持ちにならなければ、生涯の暗底である岩盤には達しなかったのです。どんなに華やかでも、表面は流れ去る砂山です。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」(方丈記)しかし、この底の底に達したことは恵みでもあるのです。原罪によって神との関係を遮断され、この世の被造物に支えと慰めを求めてきた人間が、永遠の岩によって支えられる体験こそ、神の玄義(ミステリオン)なのです。(田辺哲学による主観的自由から客観的自由に至らせる絶対否定の論理を参照)人生のどんな決断にも神の与える自由があります。死ぬのも自由です。ただ、大切なのは、人生のどんな場面でも、被造世界の混沌の彼方に、「わたしはあなたと共にいてあなたを救い出す」という神の言葉を聞くことではないでしょうか。本当に人生にサヨナラしたい思い、それは主観です。ただ、わたしたちを愛して下さる絶対他者であり、被造物とは違う、創造主たる神に出会うことは客観的な自由への道です。出エジプトです。

パウロも困難を経験した人でした。パウロ書簡には困難の記述が非常に多いと思います。しかし、同時に、パウロの心はなんと明るく喜びに満ちていることでしょうか。そのパウロが書いているのです。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」エレミヤにしてもパウロにしても、彼らが人生の迷いと痛みを極限まで経験したがゆえに、その言葉は真実なのです。わたしはそう信じています。

今日の個所は3つの部分にわかれています。第一番目は、弟子たちが「誰が天国で一番偉いのでしょうか」とイエス様に尋ねたことに関するものです。弟子たちの言葉の裏には、「わたしたちは既に救われているし、当然、天の御国に入れてもらっている」という彼らの気持ちが隠されていると考えてよいでしょう。物事を当然だと思っているから、玄義に達する前のエレミヤのように「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか」と迷うことになります。でも、神はそのような迷いさえ受け止めてくださる方です。神はエレミヤに「軽率に言葉を吐いてはいけない」と諭しました。だから、人生の当然という主観を捨てると、迷いが消え、感謝がでてきます。不思議です。イエス様が教えた幼子の様になることは、まさに上からの目線をやめ、幼子の様に偏見なく、新しい発見の目を持ってすべてを見ることではないでしょうか。

では幼子とは誰でしょうか。デンマークの童話作家アンデルセンの「裸の王様」という話が、幼子とはなにかということへの一つの答えを与えています。透明な衣服を着ていると思い込んだ王様に、大人は何も言うことが出来ず、幼子だけが、「王様は裸だよ!」と叫んだという話です。

アンデルセンはその自叙伝の最後にこう書いています。「私の今までの生涯に晴れた日も曇った日もあった。けれども、すべてはけっきょく私のためになったのである。いわば、一定の目的地へ向かう海の旅のように、舵を取り進路を選ぶのは私自身である。私は私の義務をつくす。しかし、海を支配して暴風をおこし船をあらぬかたへ向けるのは、神の意思である。もしそうなっても、それはそれでまた、私にとっては一ばんよいことなのである。神となれば、私の胸は常に神を信ずる念にみち、私の心はいつもこの信仰によって幸福だからである。」アンデルセンは幸福でした。彼は迷わなかった人ではなく、迷いの中で、迷いのどん底で、絶対否定のさなかで、迷わない客観的信仰を与えられたのです。

彼は貧しい靴屋の息子でした。一家は一つの部屋に寝起きしていました。11歳で父親が死に、その後オペラやバレーをやったのですが、すべて失敗しました。金持ちの援助で大学に行けたのですが、悲惨な結果で卒業はできなかったのです。失敗の連続というのは、まさにエレミヤと同じです。わたしたちにも同じ経験があるわけです。

そこで、福音書の第二の話に移りましょう。これは罪の誘惑の話です。ここにも大きな迷いが生じます。例えば、神を信じている者が大きな罪を犯してしまったらどうでしょうか。あるいは自分の良心が痛むような過失を犯したらどうでしょうか。それまでの明るく朗らかだった生活は消えて、暗く厳しい日が続くでしょう。日本のクリスチャンの中には、そういう人も見かけます。ルターも最初はそうでした。自分で自分が赦せなかったのです。また、神が自分を赦しているとは思えなかったのです。ところが福音を知ったルターは「信仰とは、ある人たちが信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない」、自分が自分で自分は正しいとか、決定的な過ちを犯したとか考えていること自体が「人間的な妄想」なのだとわかったのです。信仰心の中に巣くう人間主観の誤りを把握した瞬間です。また、周囲の人々があなたは良い人だとか、あなたは人間以下の畜生だと言ったとしても、それもまた「人間的な妄想」なのです。妄想ではない真実、信仰の客観は、イエス・キリストの十字架の贖い以外に解決はないという事です。イエス様は話の中で用いられた「つまずかせる」とは、ギリシア語で「スカンダロン」であり、今の言葉で「スキャンダル」の語源です。そのもともとの意味は、罠にかけるとか、人を陥れるという意味です。しかし聖書の中で用いられる場合、「信仰が妨げられる」という意味で使われます。信じているという主観にたっても、一向に、神の玄義(ミステリオン)に達していない姿です。ですから、イエス様はこの世的な価値判断や主観を教会に持ち込んでくるものは、裁かれるよと、注意されたのです。いや、既に裁かれているからこそ苦しいのです。

それはまさに聖霊に満たされ、新生する前の弟子たちの姿でした。ペトロの場合には、聖霊降臨以後でも、ユダヤ人たちの意見を恐れて割礼のない者たちと食事をしなくなり、パウロから「見せかけの行いに引きずりこまれた」(ガラテヤ2:13)と批判されています。しかし、神はそうした人間的なペトロをも正しい信仰に導いています。要するに迷いは、この「人間的な妄想」から生まれてくるのです。逆に、この世の価値判断からみたら、失格した者も、再出発させたいと神は願っておられるのです。そこにこそ、本物の愛があるわけです。失敗しても、失敗しても、神は見捨てません。

自分の弱さの根底で神に出会うのです。これは優れた数学者であり、宗教哲学者であったパスカルも言っています。パスカルの研究家であった森有正は「人は恥ずかしくて他人には言えないような自分の欠点を通してしか神に出会うことはできない」という内容の事を述べています。人生の底の底、絶対否定の体験があったこと、もしコロナが、あるいはその他の激しい自然災害がそれを招いたとしても、それはそれでいいのです。「こんな弱い自分でも大丈夫なのだ」、という絶対的客観的受容を実現するのが神の玄義(ミステリオン)です。それが、第三番目にある「迷い出た羊」と関係します。羊は弱さの象徴です。実際に、人類に長く飼いならされた羊は、他の動物とは違って、自己防衛能力を失い、自分自身で生きていく力を失った無力な存在です。聖書は、罪にある人類を羊にたとえています。その羊の救いのために、まずイエス様ご自身が一番低いところに降り立ってくださったのです。イエス様は幼子の事を弟子たちに教えるだけでなく、自らも幼子の姿を保持していた方です。主の祈りの中で、神に対して「アバ、お父ちゃん」と呼びかけて祈るように教えた方だったからです。当時のユダヤ人たちは「アドナイ・エロヒーム」(主なる神よ)と祈っていました。アンデルセンも、裸の王様が裸であることを宣言する純粋な幼子の姿にイエス様の姿を重ねていたのかもしれません。人間は失われた者である。人間は迷う者である。人間は飼い主のいない羊のような弱い者である。だから、自分では自分を救えない裸の王様なのだ。けれども、愛の神は人間を決して捨てない。あたかも、愛情深い羊飼いが、迷い出たたった一匹の羊を捜して山を越え野を越えていくように、神は愛する者を救おうとしてくださっているとイエス様は教えました。今の苦しみは、やがて来る救いの喜びのための前奏曲に過ぎない。それを、エレミヤも悩みの中で悟りました。ダビデ王も同じです。詩編23篇に、羊飼いに助けられた羊の喜びがかかれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださる。」わたしたちも永遠の大牧者であるイエス・キリストに守られ、その犠牲の血によって、人生の最も低い底で清められています。これからも、人生にサヨナラしたい場面が押し寄せるでしょう。しかし、もはや、それらはわたしたちを悩ませることがありません。主が共にいてくださるという客観的信仰に立つことができるからです。その絶対的普遍性を知ることがキリストの玄義(ミステリオン)です。

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