印西インターネット教会

鬱のトンネルを抜けて

神学校を出て、最初の赴任地は九州の別府ルーテル教会でした。九州にはJR路線で廃線になった場所が残っていました。ある時、廃線になった鉄路を歩いてトンネルを抜けてたことがありました。トンネルの中は冷たく、暗く、命の気配を感じられません。列車はもう来ないはずなのですが、何かがきたら逃げ場がないような閉塞感に胸が締め付けられます。特に閉所恐怖症ではなくても、トンネルの中にはそんな圧力が生じるのです。けれども、暗くじめじめしたトンネルを抜けて明るい外気にあたった時の解放感は実に気持ちの良いものです。人生においても、先行きの見えないトンネルに迷い込むことがあります。コロナも人の心を穴だらけのチーズのような状態にします。行動すればいいのかもしれませんが、それもできない鬱状態が続くことがあります。それでも、気にせずに生きていくと、フッと闇が去ることがあります。神の臨在を感じる時です。なぜなら、それは自分でトンネルを抜け出たのではなく、トンネルの方が神の光に照らされて消えていってくれたからです。出エジプトの際にも、ゆくてを阻む海を前に、モーセの率いるイスラエルの群衆には、後ろから迫るエジプト軍の精鋭部隊があり、絶体絶命の状況でした。ところが、「モーセが海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は別れた。イスラエルの人々は海の中の乾いたところを進んでいき、水は彼らの右と左に壁のようになった。」(出エジプト記14章21節以下)彼らもトンネルを抜けることができたのです。海のトンネルを(笑)。最後に、人々は主を信じたと書かれています。トンネルを抜けて終わりではないのです。そのことによって、それまでの状況に左右されやすかった主観的信仰が、不動の客観的信仰に止揚されたのです。これも神の玄義(ミステリオン)といえるでしょう。ですから、もはや鬱のトンネルを恐れる必要はありません。

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