キリストの言葉として聖書に「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)と書いてあります。最近見た映画で、改めて自由の大切さを感じました。映画の名前は「アメイジング・グレイス」です。察しのよい人なら、宗教映画かなと思うはずです。音楽の好きな人なら、この曲の作詞者が、もと奴隷船の船長で、後に改心して牧師になった、ジョン・ニュートンだと知っているかもしれません。意外なことに、この映画の主人公は、イギリス議会で奴隷船廃止法案を可決させたウィリアム・ウィルフォースという実在の人物でした。苦しむ黒人の苦境に対して、キリスト教信仰に立って彼らの自由を求め続けたのです。感動的な映画でした。彼の死後、首相にまでなった彼の親友、奴隷解放主義者のウィリアム・ピットも仲よく並んでウェストミンスター寺院に埋葬されているという映画の最後のテロップにも感動しました。要するに、彼らはすべての人間の自由と平等を求め続けた盟友だったのです。それから、200年近くたった現在、制度的な奴隷制度はほぼ残ってはいません。しかし、わたしたち人間は本当に自由になったのでしょうか。自由ではないと思います。何故、自由でないのかを考えさせられるヒントが映画の場面の中にありました。それは賛否両論に分かれた議会での激しい議論の中の言葉です。敬虔なクリスチャンであって、奴隷の人権は認めていても、奴隷船で利益を得ている船舶や港湾関係の人々の票田を無視することはできないという意見です。票田だけでなく、奴隷船廃止とは、海運国として築かれた大英帝国の根幹を揺るがす一大事だったのです。さて、ここで、マクロな世界からわたしたちのミクロな世界に目を移しましょう。「真理はあなたたちを自由にする」、そうありたいものです。しかし、わたしたちの多くが自由を感じていません。不自由です。何故でしょうか。問題は利害にあります。二百年前の英国も、コロナで悩むわたしたちの生活でも、何も変わりません。利害が付随しているから、自由になれないし、他人を自由にすることもできないのです。わたし自身の人生も、振り返って見れば自由を求めた旅のようなものでした。母子家庭で何かと不自由だったときに、まだ小学生だったのに、自分で新聞配達などのアルバイトをして金銭的自由を求めました。中学生の時には、小さな工員として工場でアルバイトをしました。心配性の母親の心配をよそに、北海道や四国、九州に放浪の旅に出たこともありました。家出して関西方面に住んで、一年間音信不通だったこともありました。アメリカに留学しても、広大な大地の果てまでをドライブして、カナダの同級生を訪ねたこともありました。イスラエルに短期留学した時も、飛行機で行けば早くて快適なのに、わざわざ長距離バスに乗ってエジプトのカイロまで旅をしました。これは、自由を求めたモーセたちの出エジプトの道を逆にたどる旅でした。だだ、自由を求めても、ウィリアム・ウィルフォースがイギリス議会で長年忍耐したように、すぐに実現することではありません。気持ちはあっても、真理がたりないからです。ただ、イエス・キリストは真理の問題を、知識の問題としてではなく、罪の問題としてとらえました。彼の卓越した見解です。映画を見てもわかりました。奴隷船は人道的に悪だと知識では理解出来ていても、自由になれなかった人々がいたのは、利害という罪に縛られていたからです。わたしたちの人生も同じです。見えない利害に縛られているからこそ、自由になれないのです。わたしが家出して京都に住んでいたころ、バス停でホームレスのおじさんと話したことがありました。その人は、京都大学を卒業したと言っていました。真実は不明ですが学識のある人だったのは確かです。学識だけでなく、自由な人でした。今考えると、あの人は利害を捨てた人だったのかなと思います。(でも、酒という快楽に縛られてたかもしれません。)これは一例にすぎませんが、罪という利害から解放されたときに、恐れや苦しみから解放され、神が授けてくれた自分自身において自由に、感謝して生きることが可能だと思います。最後ですが、ユダヤ人が神の子イエス・キリストを殺害せざるを得なかったのも、彼らの利害があったからです。ヨハネ福音書8章の終わりは、信心深いユダヤ人たちが利害によってどのように殺意に走ったかが書かれています。わたしたちも同じです。わたしたちが、身の回りの利害に縛られている限り、争いは絶えず、平和は来ないでしょう。