今週の説教

説教、「キリスト教の中心は赦しの教えです」

「キリスト教の中心は赦しの教えです」      マタイ18:21-35

 

今日の日課のテーマは、赦しに関するものです。キリスト教のシンボルである十字架も、赦しの象徴といえるでしょうね。だって、無実なのに、これほどむごい形で処刑されたのにもかかわらず、イエス様は怒らず、恨まず、罵らず、悪意の人々をゆるしたからです。その後の弟子たちの伝道も同じです。難しい教理を伝えたのではないでしょう。赦しです。迫害されても、傷つけられても、相手を赦す精神を忘れなかったのです。これは人間ではできないことです。神の聖霊の介在があったのです。

さて、赦しといえば、旧約聖書の創世記に赦しの美しい物語が書かれています。おそらく、エデンの園で罪を犯して、相手を赦せなくなった人類の祖先が、「赦し難きを赦す」ということを学んだ最初に出来事でもあるのでしょう。その事象が起こってから数千年たった現代でも、赦しの真理には変わりはありません。やっぱり、永遠の真理なのですね。

創世記の物語は、家族問題に端を発しています。お父さんのヤコブに溺愛されたヨセフを、兄弟たちが憎んで殺そうとしてしまったこと。そしてヨセフはエジプトに奴隷として売られたが、やがて出世して、国の宰相になったこと。やがて中近東一体に飢饉が来て兄たちは食物を求めてエジプトに来てヨセフに再会したこと。そしてヨセフが兄たちを温かく迎え、赦したことが書かれています。そして、そのときヨセフは言いました、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ここでは、ヨセフという人間の性格が寛大だったとか、憐れみに満ちていたとかは書かれていません。聖書は人間中心ではありません。神中心です。神が悪を善に変えてくださる方であるというのが赦しのテーマであり、それは十字架の憎しみを救いの赦しに変えた神の働きであることがわかります。ですから、赦しの教えとは、神の教えであることがはっきりしています。

神を知るとは、赦しを知ることです。

新約聖書で、パウロは「キリストが死んでくださったのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を裁くのですか」と言っています。つまり、もし赦さないならば、キリストの十字架を泥足で踏みつけるようなことになるという教えです。神に反する、他者を赦さないという行為、それはエデンの園で初めて起こり、現代にまで続いているわけです。

イエス様の赦しの教えは多く見られます。譬えの話が多く見られます。有名なのは放蕩息子の話です。親の財産の半分を浪費して放蕩の限りをつくして弟が帰って来た時、父親は歓迎しました。それを見た真面目な兄は怒りました。弟が赦せなかったのです。父親は言いました。わたしのものは全部お前のものだ。あの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。つまり、救われたということです。これはパウロが言っていたのと同じことです。救われた兄弟の事をなお恨んだり、怒ったりしてはいけないのです。同じく、イエス様の譬え話で借金の返済の件があります。今日の日課であり、マタイの福音書だけに書いてある、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。イエス様が弟子たちに、7回どころか7の70倍赦しなさいと教えたあとで、この譬えを話したのです。王様に1万タラントン、現在ではタラントンが6千万円(デナリオン銀貨の6千倍)、その1万倍、つまり6千億円の謝金をして、払えないので憐みを受け帳消しにしてもらったのです。喜んで帰る途中で、自分が100デナリオン(100万円)貸していた人を見つけて苦しめ、牢屋にまで入れてしまった。それを聞いた王様は憐みのない家来に怒って牢屋に入れてしまった。そのときに、「わたしがお前にしてやったように、お前もその人にしてあげるべきだった。」と語ったのです。赦しということです。それでも、赦せない人がいます。その人に対しては、「あなたがたの一人一人が心から兄弟を赦さないならば神の裁きを受ける」(マタイ18章)と戒めたのです。隣人を赦さない人は神に赦されていない人です。赦せないこと自体が、自分で科選んでいるのではなく、不幸に定められているのです。

赦せない者は、神に背を向け、不幸に定められています。

具体例を考えてみましょう。赦しの歴史の中の一例として、旧満州の撫順戦犯管理所に昭和26年から6年間収容された1000人の日本兵のことがあります。全員釈放されたのです。そこにはソ連のとったシベリア抑留とは違った、人間的な赦しの処置がありました。食事もあり、強制労働もありませんでした。多くの人はこの事実を知りません。ただ、赦しと言っても、自分の罪の自覚なしには意味がありません。6年間かけて中国政府、特に周恩来首相は再教育の方針をあたえたのです。その過程は、反省学習、罪の告白、尋問でした。反省学習では帝国主義の侵略の手段として犠牲にされていたこと。罪の告白は中国語で坦白(3声2声)と呼ばれ、その意味は日本語と少し違います。それは平坦と同じです。心がさっぱりして率直なことです。罪の告白をして心が安らかなことです。中国の思想では、坦白従寛抗拒従厳(tan bai cong kuan kang ju cong yan)、自白したものは寛大に、抵抗するものは厳重に処分するという考えがあったようです。

その、撫順戦犯管理所の記録を見ますと、反省学習の結果、元の中隊長であった宮崎弘と言う人が1000人の捕虜の前で、自分が行った中国人惨殺、試し切り、拷問、幼児殺しなどを泣きながら絶叫して告白したそうです。その後、罪認の活動がすすんだそうです。またこの撫順戦犯管理所を指揮した周恩来首相は立派な人でした。彼はマルクス主義でしたが、若いころパリに4年間ぐらい留学し、西洋思想を学んでいます。そして、迫害されていた中国のクリスチャンに教会を存続する道を与えました。旧満州の住民の6割は日本軍に家族を殺されましたが、周恩来首相は日本軍の兵士たちもまた帝国主義による戦争犠牲者だと教えたそうです。戦犯を侮辱しない、決して殺さないなどの方針です。イエス様も、誰か特に悪い人がいるわけではなく、すべての人が罪人であり、神の赦しによって生かされているのだと教えました。つまり、赦さない心とは、自分は犠牲者であり、他者が加害者であるという白黒、善悪の気持ちから来ているのです。

赦せない人は、自分が神から赦されていることを知らない憐れな人です。

今日の福音書の日課でも、イエス様は借金の例を使って、大切な福音を伝えました。6千億円近くの負債、これは無限に近い借金だという意味だと思います。それを帳消しにしてもらったらどんな思いでしょうか。嬉しいでしょう。それに帳消しという言葉には、ギリシア語でアフェーケンと言う言葉がつかわれ、これは罪の赦しと言う言葉と同じ意味です。罪というのはどんなに人間が努力しても消すことが出来ない借金のようなものだと、イエス様は強調したいのです。ですから、イエス様はすべての人が罪人であり、神の赦しによって生かされているのだと教えたのです。ちなみに、借金を赦した王様は、神の象徴ですが、これはお金を肩代わりしてくれたわけです。莫大なお金を代わりに肩代わりしてくれたこと、それはヘブライ語でハセッドと言う言葉です。愛という言葉です。愛は、罪を犯した者の肩代わりです。察しの良い人はそれがすぐに、十字架を指していることがわかるでしょう。愛は感情である以上に、他人の罪の肩代わりの事なのです。7の70倍の肩代わりなのです。

赦しの教えの極意は、自力ではなく、肩代わりの贖罪にある。

赦されるのは嬉しいが、赦したくない気持ちはどこから来るのでしょうか。他人は自分のように正しく生きるべきだ、あるいは生きれるはずだと思うからです。他者も罪という帝国主義のような支配力には無力であり、犠牲者だと理解できないからです。他人も罪の犠牲者なのです。そして、自分が罪の奴隷になっているのがわからないのです。

戦後の日本人は、自分が莫大な扱いを受けたこと、罪の肩代わりをしてもらったことに感謝し、国家を再建しました。赦しによって新しい平和国家が生まれたのです。殺し、奪い、殺略し、平和な家庭や幼子を踏みにじった過去が赦されたのです。

それは、聖パウロの経験でもありました。パウロはまさに、満州での旧日本軍のように、クリスチャンを迫害していたのです。しかし、悔い改めて赦されました。誰も、パウロに復讐しませんでした。イエス様の十字架、そして罪の肩代わりである愛を信じていたからです。憎しみに燃えていたパウロも生まれ変わり、世界中にキリスト教を広める赦しの使徒となりました。

また、わたしたちも愛の肩代わりできる人に神は変えてくださるのです。ヨセフの言葉があります。「恐れることはない。神は人の悪を善に変え、多くの民を救ってくださる。」(創世記50:19)それでも拒むなら、自白したものは寛大に、抵抗するものは厳重に処分するということになるでしょう。赦しの拒否には、厳罰が執行されます。あるいは、赦さないこと自体において、苦しみが継続します。それが既に神の裁きです。自分が赦されている事への感謝がないからです。

わたしたちが誰かに怒りを持っていときは、神の限りない赦しを受け入れましょう。自分ではできない赦しを可能にしていただけるように聖霊の働きを求めましょう。迫害の中で、二千年前の弟子たちに与えられた赦しは、現在のわたしたちにも与えられ、平安を実現するでしょう。

キリスト教の中心は赦しの教えです。

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