印西インターネット教会

ハンコやその他の重荷で苦しむときに読む説教

「あなたの荷は重過ぎる」         マタイ11:25-30

これは聖書の中でも有名な箇所です。わたしたちも人生で疲れ、また思いもかけない重荷を背負わなくてはならない体験があるかもしれません。また、体は疲れなくても、心の重荷でヘトへとになったこともあるでしょう。徳川家康も、「人の人生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と言っています。その意味は、人生は辛く、耐え忍ぶ必要があるというものです。後には将軍となった家康ですが、8歳から19歳までの多感な時代を、織田家、今川家のもとで人質として送ったのです。苦労したからこそ、ガンバレ、ガンバラなくてはいけないと自分に言い聞かせたのでしょう。聖書はそんな時に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と約束しています。家康のような人はガンバレたのですが、普通は過度な重荷には耐えられません。日本で自殺する人は年間3万人と言われます。ところが、遺書がないと自殺と認められないらしいのです。最近問題になっているハンコも同じです。すべての書類がそろっていても、ハンコが違ったら認められないのです。証明書等で本人確認できているのに不思議なことです。単なる死んだ物体に過ぎないハンコの方が、そこに生きて存在している人間より重要なのです。そんな様々なプレッシャーがあって自殺に追い込まれるのです。そこで、日本の自殺数はの実態は11万人ぐらいで、世界最高の自殺者数だそうです。でも、死んだ人を誰も責められません。重荷が重いのです。ハンコだけでなく、様々な規則がわたしたちを苦しめます。だから、生きているより死んだほうが楽だと感じてしまうのです。

さて、旧約聖書のイザヤ書を見ましょう。40章です。ここには苦しみからの解放の約束が語られています。当時のユダヤ人は捕囚されて、祖国を失い、遠い外国に奴隷として連れていかれました。人々は悲しみと絶望に落ち込み、疲れはてていました。ただ、ユダヤ人には信仰がありました。重荷を負った時に、信仰があるかないかは全然違います。普段は変わりません。同じです。しかし、徳川家康のような苦しい立場に置かれると、信仰のあるのと、信仰のないのとではすごく違います。一つの例としては、第二次世界大戦中にアウシュヴィッツ収容所に入れられたユダヤ人でしょう。信仰があったから生き残れたという人も多くいます。神から見捨てられたと感じた人たちは自分の夢が砕かれ、絶望し、早く死にました。イザヤの時代も同じでした。しかし、預言者イザヤは彼らに神の慈愛を思い出させています。これが預言者の務めです。これは現代では、神父さんとか、牧師さんの務めです。ですから、イザヤは、神さまはどんなお方であるのを語りました。すべての被造物に平等な愛の神です。この神に望みをおく者、この神を心から信じる者に、神は天から力を与えると、イザヤは福音を伝えました。「主に望みをおく人は新たな力を得る」のです。

では、イエス様はどのようにこの福音を語ったのでしょうか。イエス様は、疲れた人、重荷を負った人はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、と言いました。疲れたというのは能動態で書かれています。それは、疲れさせられたというのではなく、自分で生きる努力してきて、その結果が得られず、疲れきった人のことです。実はこれは体力的疲れではなく、当時の律法の要求を果たせなかったという疲れです。正しく生きたい、神に喜ばれたい、人から後ろ指をさされたくない生き方をしたい。ところが、なかなかそのようにできない。こうして自分が正しくない、自分が不十分だと感じて苦しむ疲れ、これが疲れた者の姿です。「自分が望むことは実行せず、かえって憎むことをするからです。」(ローマ7:15)とパウロが語ったのも同じです。パウロもイエス様への信仰を持つ前には疲れていたのです。律法を守れず、重荷が耐えきれなかったのです。ですから、これは、捕虜になっていて苦しかったという、徳川家康の重荷とは少し違います。ただ、苦しいことは同じように苦しいはずです。

しかし、人間は弱い者です。「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、と招かれてもなかなかハイ行きますと応じられません。イエス様は、誰でも来なさいと言われました。そこには条件がありません。無条件の愛です。イエス様は神の愛が無条件だから、自分が適格者でない、自分は条件に当てはまらないと考えないように教えました。実に単純に、この神の愛を受けるという受動的な救いを知るならば、安らぎを得ると約束しました。だから、イエス様は幼子のように、素直に信じて受けなさいと教えたのです。

閑話休題。千葉県の柏市のほうに六実という駅があります。これはベトナムの少女リンさんが誘拐されて殺された場所の近くです。特に、容疑者はPTA会長でしたから、子どもたちは大人が信じられなくなったでしょうし、親も見知らぬ人を信じたらいけないといっているでしょう。ところが、最近、用事があって武蔵五日市に行きました。あまり暑いので自販機のジュースを飲んでいたら、下校時の小学生たちが、こちらが挨拶もしてないのに、「こんにちは」と笑顔で挨拶していくのです。まだ、日本にも大人を疑わない子供たちがいたんだなとすこし感動しました。イエス様の時代はもっと素直な子供たちがいたでしょう。ですから、その屈託のない子供のような信頼感をもって、神の無条件の愛を信じなさいと、イエス様は教えたのです。

ただ、人間は実際の人生の試練、悲惨の前に実に脆いものです。弱い存在です。神の愛を信じる前に、重荷の方が大きく心にのしかかってきます。自分の弱さしか感じられないのです。ただ、実はこの弱き存在がキーワードです。弱かったら悪い、強くなりなさいというのがキリスト教なのではありません。家康は強くなったわけです。だから、三方ヶ原の戦いに負けて、脱糞した自分の姿を描かせて、強くならねばダメだと自分に言い聞かせたのです。ところが、イエス様は、疲れた人は強くなりなさいとおっしゃったでしょうか。疲れた人は努力が足りないとおっしゃったでしょうか。疲れた人はあなたの生活管理が悪いと叱ったでしょうか。そうではない。イエス様は、心配いらないから、とにかくわたしのもとに来なさい、そしたらわたしは安らぎを与えると言われた。イエス様は、人間の持つ罪のための限界を知っておられたのです。だから無理な要求はしません。そして、そういう神の愛から来る救いを約束したのです。

それは礼拝であると言ってもいでしょう。礼拝とは、特定の場所で行われるものだけでなく、主の無条件の愛を信じて、神の招きに応じる事、主が来なさいと言えば来ること、主が行きなさいと言えば、行くこと、この決心が出来てその場に跪くときにも成立するのです。すなわち単純な信仰に根差すものです。

わたしたちは、疲れた人、重荷を負った人はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、というイエス・キリストの約束を聞いています。イエス様は、「あなたの荷は重過ぎる」とおっしゃっている。ですから、わたしたちがなすべきことは、無条件の招きを受け取るだけで良いのです。ですから。疲れた人、重荷を負った人になり切って、無理に頑張らず、幼子のようにイエス様の言葉を信じ、「だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、という招きに、アーメンと応答することです。アーメンとは原語ではその通りですという意味です。はい、その通りです、ありがとうございます、そうしてください。それだけでよいのです。神はさまざまな解決手段を見えない手で与えてくださいます。そしたら、イザヤ書40章31節の「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」という素晴らしい約束が実現します。ただ、わたしたちに必要なのは、アーメン、信じますと答えるだけでいいのです。あとは、神様が必ず良いように運んでくれます。

第二コリント13:4に「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者です」とあります。パウロは疲れた者、重荷を持った者としての自覚を忘れず、常にアーメンと答えた人でした。自分の「荷は重過ぎる」と感じたら、それは、福音を聞く機会です。重荷こそ、実はわたしたちを神の無条件の愛に向かわしめる救いの手段なのです。

 

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