聖書研究

陰湿ないじめを、熱く告発するヤコブ

ヤコブの手紙2章6節 -13節    

6節には厳しい叱責があらわれます。教会のメンバーが貧しいものを辱めたというのです。「非情に力のこもった言葉である。」[1] 手紙の受け取り手たちを直接に責めているのです。ここで、「辱める」にはアティマゾーというギリシア語が用いられており、それは、「正当な価値を認めない、軽んじる、侮る、面目を失わせる」などの意味をもちます。つまり、神が一人一人に与えた尊厳や価値を踏みにじる過ちを犯したことを責めているのです。ですから、この言葉は、価値(ティメー)に否定形の(ア)を加えた合成語になっています。ここに人間関係の問題の根源があるのではないでしょうか。他者の価値を認めず、排除や迫害、いじめ、殺人などに至らせながらも、自らの正義を装っているのです。またその意識が自分に向けられた時には、自分の価値を認められずに、自己卑下、自傷行為、自殺などに向かうのではないでしょうか。それは、古いアダムの特性であるともいえるでしょう。人を外面の行為や業績で評価することは、その反面、そうした条件を満たせない者の価値を否定することにつながります。

ここで、ヤコブは、むしろ金持ちが人々を圧迫し、訴訟に引き出したと述べます。「富む人々は、貧しい人々を圧迫する法的手続きを用いることができたのである。」[2] 文面通りに受け取ると、ここには3つの社会層があらわされているようです。侮辱された貧民層、そしてその侮辱行為を自ら行いながらも金持ちから圧迫されている中間層、そして彼らの上に立つ富裕層です。ここでの富裕層が教会員だったのかどうかは不明です。しかし、中間層であるヤコブ書の読者を訴え、裁判にかけた人々ですから、教会とは直接の関係を持たない人々かもしれません。「すなわち、信者でない金持ちが彼らの集まりに姿を見せると、ただただ恐懼感激、おめでたくも他の一切を忘れてしまうのだ。」[3] 富裕層の非を告発する者がいなかったのです。「人々を排除することの危険は、自分自身が神の国から排除されることである。」[4]

7節はこの富裕層に言及します。これらの人々が尊い名(良き名)を罵ったというのです。尊い名とは、キリストの名か神の名である可能性があります。なぜなら、罵る(ブラスフェモオー)とは現代の英語にも残っている特殊な言葉で、神を冒涜するという意味だからです。そうであるとするなら、これらの金持ちは信者では決してありえないわけです。また、ヤコブのユダヤ的な思考方法では、神を冒涜するというような直接的な表現を避け、「尊い名を罵った」という婉曲的なものに変えたということは十分に考えられることです。「富む者を糾弾するヤコブの舌鋒は、旧約の預言者たちのそれのごとくに鋭い。」[5] また

[1] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、59頁

[2] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、178頁

[3] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、43頁

[4] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、66頁

[5] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、43頁

この尊い名には、エピカレオーという修飾語の分詞がついていますが、その意味を加えると、「あなた方が呼び求める尊い名」となり、聖なる御名をあらわしていることはほぼ確かです。

そこで、8節でヤコブは中間層に再度呼びかけます。もし、彼らが聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マルコ12:31、レビ記19:18)という最高の律法に従っているなら、それは良い事を行っているというのです。「えこひいきを禁じる同じ律法が、隣人愛を要求する。」[1] ここでの「聖書」とは、旧約聖書の事でしょうか、それとも新約聖書のことでしょうか。「この最高の法則には冠詞がありません。ですからこれは決してモーセの律法を意味しません。」[2] もし、旧約聖書であるならば、ヤコブの考えはイエス様の教えには密接には結びついていないと考えてよいでしょう。ただ、新約聖書のほかの部分に、当時既に用いられていた初期新約聖書に言及する部分(第二ペトロ3:16参照)もありますので、それを指しているとも考えられます。また、律法の完成として隣人愛を教えている新約聖書の個所もあります。「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5:14)また、8節では、ヤコブがこの律法の修飾語として(最高の、あるいは王に属する、御国の)という言葉を加えていますので、主なるイエス・キリストに属する律法と考えてもよいのではないでしょうか。であるとするならば、ヤコブは、教会活動がキリストの教えと聖霊の導きに従って、貧富の差や、外面の違いを越えて、神が尊い被造物である互いの価値を認め合って生きることを勧めているわけです。

しかし、そうでない場合もあります。9節では、分け隔てする差別的な生き方を罪だとしています。「人を偏りみるというのは、すべての人を同じように愛さないことである。」[3]ちなみに、ここでの「罪」(ハマルティア)とは、的外れという意味です。確かに、神が定めた愛の原則、あるいは神自身である愛を無視して、人を差別するならば、聖書的には的外れということになるでしょう。そして、そのような人々は律法の違反者のように責め立てられているというのです。ただ、この部分では、どのように責め立てられているかは不明です。

10節で、そのことの解釈が見られます。その意味は、律法というのは、その一つでも破って(躓いて)しまうと、全部を破ったのと同じであり、罪が生じるというのです。「躓くという語は、日々引き起こすところの咎に関していわれる言葉である。」ですから、えこひいきのような日常の些細な罪も全体に対する違反と考えられるのです。これは、聖書の独特な考えであり、新約聖書にも、「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われている。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)、という旧約聖書からの引用が見られます。また、イエス様も「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうす

[1] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、180頁

[2] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、44頁

[3] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、62頁

るようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる(マタイ5:19)と語っています。ですから、新約聖書も旧約聖書と同様に、一つでも律法を犯すなら神の前で義とされないと考えるわけです。「つまり律法は、神の一つなる御心から生じたものであるがゆえに、完璧なる一体を成すのである。それゆえ、律法の一点において違反を犯した者は、律法全体に違反する罪を犯したことになる。」[1] それほど、律法の厳守の意味は厳しいものだったのです。それをヤコブは思い起こさせていると思われます。つまり、ユダヤ教ではなくキリスト教的な律法厳守が述べられているのです。

11節で、ヤコブは説明を加えます。「この節は、なぜ律法が全体としてとらえられなければならないかを説明する。」[2] 律法に「姦淫してはいけない」、「殺してはいけない」と書いてあって、たとえ、「姦淫してはいけない」という律法を守っても、「殺してはいけない」という律法を守らなければ、まさしく律法の違反者になるというのです。「この教えに従えば、ヤコブは、えこひいきという態度もまた、この戒めのうちに含まれていると言っているのかも知れない。」[3] なぜならば、違反という言葉は元来、「踏み越える」という意味で、英語ではトランスグレッションになっており、やはり、律法のどの部分を踏み越えても、踏み越えたという事実は事実ですから同罪となるわけです。わかりやすく考えれば、国境を踏み越えて不法入国した時に、その距離が1メートルであろうが、10キロであろうが、不法入国の事実は同じだということです。それが、聖書的な考えなのです。律法の違反はその内容にかかわらず、神の御心に対する不従順であることに変わりはないわけです。ヤコブはこうしたユダヤ的な考えに従っていると思います。

12節では語調が変わります。このように語り、このように行いなさいというのです。それは、あたかも、自分の行動に関する善悪を知らない子供を諭すかのような表現です。また、ここでヤコブが言及している「自由の律法」とは何でしょうか。おそらく、イエス様が「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と述べた事とも関係するのでしょう。「しかし、もし人が『自由の法則に従っている』と言いながら、兄弟を愛していないならば、また心の中に兄弟に対して苦い思いを抱いているならば、自由の法則に従っているという告白は偽りです。」[4] わたしたちが持つ律法のイメージは、自由よりむしろ束縛であるのですが、より高度な律法解釈では、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためでではなく、完成するためである」(マタイ5:17)という愛の福音的な視点を忘れてはいけないのです。愛が律法を完成するのです。愛と律法は相反する概念ではありません。おそらく、ヤコブの意図は、律法とイエス様の愛の音の統合を、教会という現場で希求することだったのではないでしょうか。それは聖霊の導きなしには不可能なことです。

[1] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、45頁

[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、109頁

[3] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、110頁

[4] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、48頁

13節で一つの結論が述べられます。憐れみのない人には憐みのない裁きが下るというのです。「キリスト者たちはなにを考えるときにも、またなにを行うときにも、自分がいつの日にか神の審きの御座の前に立たねばならないことを、絶えず心に刻み付けておくべきである。」[1] これはパウロも述べていることです(第二コリント5:10)。ここに見られる「憐れみ」という言葉にはエレオスというギリシア語が用いられています。キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ)の語源です。それは「悩めるものを困窮から救済する」という愛そのものであり、まさにイエス様の教えの中心だったわけです。「結局、すべては愛につきます。」[2] つまり、ヤコブによれば、イエス様の働きは単なるお手本ではなく、愛の教えに従うか拒絶するかによって、あとで相応の裁きが下るものなのです。「社会生活の中でキリストに従わないことは、死んだ信仰の象徴であり、救いのためには何の効力も持ちえない。」[3] この点ではイエス様も信仰とはみ旨に従うことだとしていたのですから、そこから逸脱するものではありません。

また、最後には憐みが裁きに打ち勝つとあり、罪の束縛下に置かれながらも、憐れみをしめした者を、神は救い主イエス・キリストの憐れみによって救い出すことを示しています。「これは、霊的な人間は審判のもとにはないということである。」[4] そういう考えは後期ユダヤ教に既にみられ、動物に対する憐れみすら奨励されています。宗教は違いますが、現代のタイでボランティア活動が盛んだそうですが、それは現世で人助けしておけば来世で自分が助けられるという思想を背景としているものだそうです。ただ、この場合には、自分の行為が主体ですが、さすがにヤコブ書では、単なる人間の善行を勧めているのではなく、(キリストの)憐れみが裁きに打ち勝つという結論になっていて、罪深い者には福音となっています。わたしたちが憐れみを行うことができるのは、わたしたちの力によるのではなく、「キリストがわれわれの中におられることの証拠として認められるであろう。」[5]つまり、内在する弁護者である聖霊の働きなのです。「わたしたちの憐みが新しい創造における真実の生命の証拠として受け入れられるのは、まず初めに神の憐みがあるからである。」[6] まさに、それをヤコブは伝えてようとしているのでしょう

[1] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、45頁

[2] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、159頁

[3]  前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、71頁

[4]  E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、102頁

[5] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、113頁

[6] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、72頁

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