「1×3=1」の神学 ヨハネ3:1-12
キリスト教用語で日常用語になっているものがいくつかあります。復活折衝、などの復活。苦難の十字架。貧しい人の福音。三位一体などです。では、この三位一体とは何でしょうか。これが示すのは、父と子と聖霊ですから、1×3なんですけど答えは3ではなく1なのです。3つの独立した存在なのに、3つの神ではなく1つの神というのは実に不可解ですね。留学生だったころ、外国の教会の教会学校を見学したら、三位一体を、水と水蒸気と氷だと教えていました。確かに同じH20ですね。しかしこの例の問題は、同じものが3つの表情をしているという事です。神様の三位一体の父と子と聖霊は同じ存在ではありません。しかし、これは教会の教えでは重要です。この重要な教えを理解することが素晴らしい人生への入り口となります。何故なら、これを理解した初代教会の弟子たちは数百年に及ぶ迫害を耐えただけでなく、素晴らしい人生を送って伝道することができたからです。
さて、教会の暦はクリスマスから始まります。そのあとに受難節が来て、受苦日、復活祭と続きます。復活後は主の昇天、聖霊降臨と続いて、今日の三位一体の日曜日となります。この三位一体主日は、1334年の教皇ヨハネ22世の時代から守られているそうです。三位一体という言葉は、聖書にはありません。けれども、マタイ福音書28:19に「あなた方は父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と書かれていますので、実質的に三位一体が聖書に表されていると考えていいと思います。昔から三位一体主日には、イザヤ書6章を読むのが習慣になっているようです。そこに「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という言葉があります。イザヤは自分の罪を考えたとき、とても神殿に入場できる資格はないと思ったわけです。ところが、天使が飛んできてイザヤの口に祭壇の火を触れさせ「罪は赦された」と宣言しました。罪責感が消えたので、神殿に入ることができました。三位一体主日で大切な事の一つは、罪が赦されたことを実感することです。それは、悩みや不安、恐れが消えることだと言っても良いでしょう。だから、三位一体の理解は、幸せな生活には欠かすことのできないものです。
イエス様に質問にやってきたニコデモは、ユダヤ人社会の指導者であり、70名いた国会議員の一人だったのです。この人が人目を避けて夜中にイエス様に会いに来たわけです。彼には自分が天国に入れるかどうかという不安があったので、こっそりと夜にイエス様に会いに来ただと思います。余談ですが、20数年前に家内の父が東京に遊びに来た時に、庭先で、ぽつりといいました。「自分は死んで天国に行けるんやろか。天国にはいったことがないけんな。」喉頭がんで余命のない時の言葉でした。戦死者が非常に多かったインパール作戦を生き残り、牧師の資格も持っていた義父でしたが、天国については不安があったわけです。ニコデモも同じだったのでしょう。
だれでもそうだと思います。罪の赦しを実感できない限り、人生の末路に立って、悩みや不安、恐れが消えるこはありません。ニコデモ言葉の中には、イエス様が神から来た人だという認識が見られます。その根拠はイエス様の行った奇跡でした。神が共にいなければこれらは不可能だとニコデモは知っていました。神が共にいる事には奇跡が伴います。それに、ニコデモのように社会的な重要人物で経験豊富な人が、偽物やまやかしの奇跡を信じるはずがありません。ただ、彼には神の国に入る確信がありませんでした。罪の赦しの確信がなかったからです。
それに対するイエス様の言葉がありました。原語ではここに、アーメン、アーメンと書いてあって、絶対的な真実を伝える際の対話形式になっています。ニコデモは、イエス様の事を神が共にいる人と言ったのですが、それをイエス様は打ち消しています。何故なら、人は天からの力によって生まれ変わらなければ神の国は見ることができないし、イエス様が神の子だということもわからないからです。ここで、イエス様は「新たに生まれる」という言葉を伝えています。新生です。日本の戦後のタバコには新生、ピース、ホープなど聖書の関係の名前が多くありました。戦争の苦しみがあったからでしょう。さて、新生には「上から生まれる」という意味もあります。この世的な肉、罪の体が原因で苦しみやストレスがあると聖書は教えています。ちなみにヘブライ語の奇跡の意味は、信号であって、神が生きて働くことを示す合図なのです。基本的には神の働きは隠されています。だから、上から与えられる聖霊によって生まれ変わらない限り、肉の目には直接には「見えない」ことが多いのです。讃美歌の作曲をしたヘンデルがそうでした、金と力があって、肉の生活に埋もれていた時には、神の働きは見えなかったのです。ところが病気になって死にそうになったら、神の奇跡が起こったのです。あの大作メサイヤの楽譜も40日程度で書き上げたそうです。上からの聖霊の働きだと考えられます。
おそらくニコデモは、幼少の頃から神の話を聞いてきたでしょう。成長してからも、信心を失わず、国会議員という高い地位にたっても、神への信仰は持ち続けていたわけです。ですが、ニコデモは、まだ肉的な信仰、人間的な視点しか持ちえなかったのです。イエス様はニコデモに言いました。あなたは神を知らない。あなたはまだ新しく生まれ変わっていない。人間のものは肉であり、神のものは霊である。イエス様の答えは新生でした。イエス様は、いつもそのように教えました。「新しい葡萄酒を古い革袋に入れてはいけない」(マタイ9:17)。自然も同じです。役目を終えた葉は、枯れて散ります。花も実も落ちます。古いものを常に新しいものと入れ替えていくのが自然の世界であり、神の世界です。ニコデモのような良い人でも、古い肉ですから、聖霊によって生まれ変わらないと神の国に入れないこと、つまり古い葉をつけたままでは無理だったのです。でも、彼には、肉から霊への転換方法がわかりませんでした。
人間的な発想から神的発想への転換は自分ではできない。
そこで、イエス様は再度、アーメン、アーメンと言って、絶対的な生まれ変わる方法、霊に移行する方法を教えました。それは洗礼の水と聖霊でした。罪の赦しとは、自分で反省することではありません。罪を素直に認めること。自分では肉の結果である罪を解決できないことを認めること。そして、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)、という言葉を信じ洗礼をうけることなのです。これが水です。ただ、イエス様は水だけではなく、水と霊と教えたのです。
ニコデモとの会話で、イエス様は聖霊を風に譬えました。音はあるが姿は見えないのです。聖霊によって生まれた者も同じだと言います。ニコデモはどうしてそんなことが起こるのかを聞きました。するとイエス様は、わたしは見た事、経験したことを伝えるが、あなたはそれを受取ろうとしないと言いました。つまり、目に見えない聖霊は、信じて受け取ることが大切であり、その時にわたしたちも神の国に入れて頂けるのです。ここに暗示されているのはまさに三位一体、父と子と聖霊です。
人生の喜びも悲しみもありのままに、感謝して受け入れるときに上からの聖霊を受けます。こうではいやだ、ああしてほしいと、自分の願いだけを優先し、神の語りかけを聞かないときは肉であり、聖霊を拒否してしまいます。
聖霊とは神からの小さな声です。
聖霊によって生まれ変わった時、「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ福音書14:23)、ということが実感として実現するのです。それこそが、究極の罪の赦しの実感、神が共にいて下さる実感なのです。
神が共にいると実感するなら、罪が生み出すすべての苦しみは消え去る。
ニコデモもその後、聖霊を受けて罪の赦しを受け、キリスト教の伝道を担ったからこそ、この記録が残ったのでしょう。伝道によって三位一体が完成されます。ルターも述べています。「聖霊はこの聖なる会衆を用いて、み言葉を宣べ伝え、聖化を成就する。」三位一体とはまさに、自分ではどうすることもできない罪が赦され、古い革袋から新しい革袋に新生させていただき、キリストと共に、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ」(コロサイ3:10)、神の愛に組み替えられ、悩み知らずとなることです。
自分がイエス・キリストと共に、神の子である。
なぜなら、罪赦されたわたしたち(聖霊の宮)と、救い主イエス・キリストと、天地創造の神とが一体化されるからです。