人生の最後に読みたい説教
「グリーン、グリーン、グラス、オブ・ホーム」 ヨハネ14;:1-14
「思い出のグリーングラス」、という歌がありますが、英語の題は「グリーン、グリーン、グラス オブ ホーム」です。今から約50年前の曲で、懐かしい故郷に帰ったら、両親が汽車の駅まで迎えに来てくれた。昔のガールフレンドも迎えてくれた。故郷の家は古びていたが昔のままだった。子供のころに登って遊んだ大きな樫の木もあった。しかし、夢が覚めると自分は刑務所にいて、死刑執行の朝だった。牢獄の番人と悲しげ顔をした神父さんと死刑場に向かっていった。故郷のグリーンな芝生がなつかしい。そういう歌詞です。つまり、そこで歌われているのは人生の最後の場面です。ある、外国の先生が講演していました。人間は最後の日の事を忘れやすい。この日は必ず来る。忘れないならば、今日の小さなことも大切なことになる、というのです。
人生の舞台には必ず終わりがある。
イエス様は、心を騒がしてはいけないと教えました。この騒がせるという言葉は、ギリシア語でタラソーであり、これは、動揺する、不安を感じる、おじ惑うという意味です。弟子たちもそうだったと思いますが、生きている限りそうした気持ちになることは避けられません。ある面では、いつ刑が執行されるか知らされていない死刑囚のようなわたしたちです。いつか必ず終わりが来るわけですが、その時がわからない。それだけで、心が騒ぐはずです。その解決策をイエス様が教えました。神様の家には住む場所がたくさんあるということでした。この世の人生が終わってもいい。神の家に住むことができるというのです。そしてまず先に自分が行って、用意して、戻ってきて、あなたを連れ出すと原語にはあります。迎えるのではなく、一緒に引き連れていく、あるいは引率するから安心しなさいということです。全部、イエス様が準備し、道案内するし、いつも一緒にいるから、不安に思わないようにという慰めに満ちた教えだと思います。
それから、わたしが行くところをあなた方は知っているでしょうと、イエス様が言ったら、弟子のトマスはどうやったらそれがわかるのですかと尋ねました。彼は復活のイエス様に出会った時もそうでしたが、自分の目と自分の手で確かめないと納得しない人でした。ですから、イエス様が父なる神のもとに行くと言っても、その方法がわからなかったので、質問したわけです。わたしたちの気持ちも同じようなものではないでしょうか。
その時のイエス様の答えが独特でした。新約聖書に、それはここにしか書いてありません。外国では、多くの教会で壁に飾る板に刻銘してある有名な言葉です。トマスが道を聞いた時に、イエス様は「わたしが道である」と答えました。
わたしたちは「道」を知らない。
ここを読むと、南米のジャングルに伝道に行った宣教師の話を思い出します。未開地に行くには、バスも電車も道路もないわけです。アマゾン川の支流を小さなボートに乗って遡り、ボートの船着場からおりて、あとは徒歩で長い時間歩いていくわけです。そこでは地図というものがありません。現地の道案内のガイドがいるだけです。何時間歩いても一向に目的地の村に着きそうもないので不安になった宣教師が、まるでトマスのように、「どうしたら道を知ることができるでしょうか」と尋ねたそうです。ガイドは、にっこり笑って答えました。「安心してください。わたしが道です。」ある面で、これはすごい話だと思います。
道は自分で見つけるものではなく、神の側から示される。
わたしたちの不安とストレスは、道を知らないことから生じる訳です。死ぬ時すらわかりません。イエス様は父なる神への道を知っていただけではなく、イエス様自身が道だったのです。そして真理だったのです。また、命そのものだったのです。この世でどんなに力があっても、知恵があっても、イエス様という道、イエス様という啓示者を通してでなければ、父なる神の故郷へ帰ることはできないのです。神への道はイエス様しかないのです。
道がたくさんあるわけではない。
ですから、ここに教会の大切さも説かれていると思います。この地上には様々な地図が売られています。幸福の国に至る地図です。進学、就職、結婚、育児、退職などの案内図です。しかし、それは本当のガイドになりません。
まがい物の道も時には楽しい。しかし、道の最後には失望しかない。
神の道ではないからです。その道がイエス様であり、この世のイエス様の体である教会が神の道であると聖書は教えています。コロナが起こるまで、教会という建物の中だけの行事が教会だと思っていました。しかし、パウロが盛んに手紙を送った教会は建物ではなく地域の人々でした。現代では、インターネットによって、その地域は全世界です。When St. Paul sent his letters to the local churches, churches nowadays which possess buildings and yards did not exist, but only local group of believers scattered in deferent areas. Now we, because of Corona epidemic, face new paradigm, which I would say, the emancipation to the original form, the Church without building, without property, and the parish is our world itself connected by internet!!
「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:22)、とあります。聖霊が、地上の教会をまさに神の家とするのです。そして、あらゆる不安、あらゆる胸騒ぎから救ってくれるのです。
弟子との会話の中で、次にフィリポが父なる神を見せてくださいと言いました。そしたら満足できると言うのです。これもトマスに似ています。自分の目で見て確認したら満足できると言うのです。この言葉一つ見ても、イエス様の弟子たちの信仰のレベルの低さがわかります。(彼らは聖書の専門家ではなく漁師でしたので、無理もないことです。)
何故なら、信仰深いユダヤ人なら、「神を見る」なんて言葉は恐れ多くてとても口に出せなかったからです。モーセが神のお告げを聞いた時も、「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」(出エジプト3:6)と書いてあります。それなのに、図々しくも、「神を見たら満足します」と、フィリポは言ったのです。ここは普通の先生なら「何て不謹慎なことをいうのだ!」と叱るところです。ところがイエス様は優しいわけです。フィリポを叱ることもなく、イエス様と父なる神が共にいることをていねいに教えたのです。それを信じなさいと諭したのです。実際にイエス様の事は目で見えているのですが、その地上のイエス様と神のご臨在が一緒なのだということは、信じるしかありません。イエス様は忍耐強く教え、それでも信じられないならば、イエス様が行った多くの活動を通して信じなさいと教えました。
そして、最後に、「わたしの名によって願うことはなんでもかなえてあげよう」と約束しています。ここに神の性質が顕されています。イエス様が神への道であり、イエス様と神とが共にあるということは、ここに明らかです。神は惜しみなく与える方である。ここがイエス様の教えの中心です。また、イエス様の体である教会の本質は、惜しみなく与えるということでした。地上の教会も、惜しみなく与えることで二千年間存続してきました。ただ、わたしの印象に過ぎませんが、最近の教会は与えることを惜しみ、自分を守ることを第一にしているように見受けられます。
他者に与えない者はやがて滅びる。
使徒言行録をみても、初代教会の人々が、教会はまさにキリストの体であることを、身をもって示し、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった、金は必要に応じておのおのに分配されたからである」(使徒4:34以下)と書いてあります。イエス様も、「あなた方の天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(またい7:11)と教えられました。本当に神は寛容で与え続ける方なのです。
最初の死刑囚の話、それはイエス様の十字架の隣の十字架にかけられた大犯罪人が真っ先に天国に入った話に共通しています。たとえ死刑囚でも。この人を愛する親は抱きしめて迎えてくれます。イエス様の隣で十字架につけられた犯罪者バラバも、皆に先立って天国に迎え入れられたのです。聖書はわたしたちも罪ある死刑囚だとします。しかし、イエス様は、そのわたしたちのために十字架にかかって罪の罰をわたしたちに代わって負ってくださり、永遠の命を与えてくださったのです。そして、今も、わたしたちのガイドとして引率してくださいます。人生のジャングルでの心配、苦しみ、もがき、あせり、慟哭、嘆きはこれからもあるでしょう。でも問題ないのです。この地上のキリストの体なる教会と共に歩みなさい、そうすれば、なんでもイエス様の名を通して求めたら与えていただけると約束されているのです。インターネット教会にもこの役割があることは確かです。