書評

笠原一男著、「蓮如」吉川弘文館、1969年(その2)

笠原先生の講座は大学時代に受講したことがあります。その時も、蓮如や親鸞について先生は熱く語っておられました。その頃のわたしは唯物論者・共産主義者であって、宗教というものに対しては警戒心を持っていました。大衆を騙す前時代の虚構的遺物のような認識だった訳です。しかし、笠原先生の授業には、そうした嘘は感じられず、存在を揺るがす実存的な喜びがひたすら伝わってきました。その後、わたしは死ぬような苦しみを経て、仏教徒にはならずキリスト教徒になりましたが、仏教に対する親しみは今も残っています。実際に、このインターネット教会を始めるキッカケとなったのは、大分県の教会に赴任していた時に知り合った僧侶、田口学法さんの、インターネット寺院のことを知っていたからです。古代にはパウロの手紙、現代ではインターネット配信で十分に教えは伝えられます。さて、蓮如のことに戻りますが、開祖者の親鸞に対して、蓮如は、その教えを広めたパウロのような人だったとわたしは考えます。蓮如なしには、親鸞の純粋な教えはずいぶんと歪められて伝えられたことでしょう。また、パウロなしには、ガリラヤの田舎の青年イエスの言葉は、歴史の渦の中で消えていたかもしれません。そんなわけで、仏教とキリスト教徒の思いがけない共通点を発見するときに、神の創造の不思議を感じてワクワクするのです。蓮如は、「堂に於いて文を一人なりとも来らん人にもよませてきかせば、有縁の人は信をとるべし」(29頁)、と語っています。ここに隠されている教理とは、信仰は「恵みの先行性」にあり、個人優先の選択ではなく、仏教では「有縁」、キリスト教では「予定説」の世界に関連するものなのです。端的に言えば、人間が神仏の慈愛を信ぜず、自力で何事も解決しようとするところに人間の罪があり、迷いの根源があるのです。このへんは、戦国時代の武将ですら知っていました。現代の信仰者においては、知らない人が多いでしょう。信仰がいつの間にか、個人主義の隠れ蓑になってしまったのです。それはそれとして、著者の笠原先生は、「御文さえあれば、すべての人が立派な布教者の役がつとまるのである。だから、私は、前に、一枚の御文は数千・数万の蓮如の役割を果たすのだといったのである」(30頁)、と書いています。この御文こそ、パウロの手紙のように信仰の内容を伝える書簡でした。数ある御文の一つの中で、蓮如は信仰心とはどのようなものかを説明しています。「(弟子は)わがちからかなはずとも、坊主のちからにて、たすかるべき様におもへり。これもあやまりなり。(中略) むなしく地獄にをちんことはうたがひなし。」(64頁)蓮如は、坊主任せ、牧師任せの信仰ではなく、しっかりと自己の信仰に立つべしと説いています。わたしも、このインターネット書簡を通じて、皆さんが堅固な信仰心に基づいた幸せな人生を送って下さることを願っています。

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