印西インターネット教会

再受験生が見捨てられない社会を望む

大学を卒業後、音楽活動をしていた人が、30歳過ぎて医学部を再受験し、合格点を取っていたにもかかわらず、年齢や経歴などの理由から不合格になっていました。その人のラップ音楽がネット上で拡散しています。わたしも聞いてみましたが、胸を打たれるものがありました。実は、そういうわたしも、再受験の経験があったからです。ルーテル教会の形式的な伝道活動に満足できず、教会を飛び出し、12年間開拓伝道したあとに、復帰を申請したら、既に神学校も行っているし按手も受けているにも関わらず、再度、教師試験を受けてくれとの通達が届きました。何も知らずに、教師試験会場に行って面接を受けたら、常議委員やその他の役員たち10名以上に囲まれて、まるで犯罪者の尋問のようでした。牧師の数が少なくて困っているという機関誌で見かける常套句とはまるで別世界で、こんなならず者を、牧師に再採用しては教会のメンツにかかわる、という雰囲気でした。自分としては最善を尽くしたつもりでしたが不合格でした。その試験の後に、もう亡くなった同級生の一人が食事に誘ってくれ、驚くようなアドバイスをしてくれました。「中川君は、アメリカ生活が長いから、ひとの顔をみつめて話すけど、あの試験ではそれがマイナスなんだ。自分は反省していないという印象を与えてしまう。」では、どうしたらいいのかと尋ねると、「目線を下に向け、すまなそうな態度が大切なんだ」、といかにも日本的な、情緒に訴える方法を伝授してくれました。この方法で、翌年は合格しましたが、やはり反対者も多く、賛否は僅差だったということでした。この事と、医学部受験に直接の関係はありませんが、「音楽活動に限界が来たから医学で食っていこうというのはズルイ根性の輩だ」とか「医学を目指すのは、家柄も良く、新卒の若々しい将来性のある人でなくてはならない」、等々の情緒論が支配的だというのは同じです。キリスト教信仰では、アブラハムもモーセも、当時の平均寿命から考えるととっくに墓の中に入っているはずの年齢で人生の再出発をしています。年齢に関係ない場合でも、ヤコブは家を追われ、あくどい伯父のもとで再出発を繰り返しました。あの大審院の判官のよう態度をとった教師試験委員の人々は、受験生を情緒的な理由で不合格にした大学側と差があまりありません。そして、それが、日本社会の底辺でまだまだ幅を利かせている、根強い癌なのです。だから、神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)ような、公平な社会の実現を望んでやみません。切り捨てられる者の痛み、「社会の常識」によって排除される異端者の痛みを少しは知っているからです。最後に一言、かつて一緒に大学で英語を教えていたカナダ人の先生は、高校を卒業してから、航空産業の会社で働き、その後、社会人として大学受験して学んだそうです。それはカナダでは珍しい事ではないそうです。

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