閑話休題

憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の力ためさん 熊沢蕃山

これは、わたしの好きな言葉の一つです。若いころには、熊沢蕃山のことを一種の超人のように考えていました。どんな試練も苦にせず、前進を続けるヒーローです。しかし、蕃山の生い立ちを調べてみると、幼いころに養子に出されたりして苦労しています。長男だったのに養子に出されたという事は、家庭の事情が苦しかったからではないでしょうか。それでも、蕃山は成長し、陽明学を学びました。陽明学は、それまでの学究的な朱子学に比べて、もっと実践的な学びを強調したようです。そして、日々の生活こそが学びの場なのです。もし、蕃山が強い人ではなく、弱い人なら、この言葉はさらに深い意味を持っているといえるでしょう。つまり、自分の弱さを隠したり、逃げたり、快楽で忘却しようとはしない態度なのです。わたし自身も、苦手な事柄が多くありますが、あえてそうした、見たくない、やりたくない、関わりたくないことがらにチャレンジしたいと思っています。聖書では、パウロがこのように書いています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(新共同訳、第二コリント12章10節)ただし、わたしはこの新共同訳の「キリストのために」という翻訳が好きではありません。以前の口語訳はさらに悪訳になっており、「わたしはキリストの為ならば」となっています。何故よくないかといえば、それは第一にギリシア語原典に忠実に訳されていないからです。第二に、こうした訳によって感化されるキリスト者は、自分が強くなってキリストにお仕えしなければならないと思い込むはずです。これは神学的な未熟さを示し、こうした聖書翻訳を野放しにしている日本のキリスト教のレベルの低さを露呈し、自分の弱さを十分に自覚している一般の人々を、キリスト教の高邁姿勢から遠ざける結果となっているのです。では、その理由をあげましょう。ここで、「ために」とか「為ならば」とやくされているギリシア語はヒュペル(HUPR)です。英語でいえばFORにあたります。少しでも、英語を学んだことのある人ならば、FORには「ために」という意味だけでなく、「の故に」(because)という意味があることを知っています。このヒュペルも同じです。キッテルのギリシア語辞典という、全10巻、約1万ページに及ぶ莫大な量の資料の中にもヒュペルの項目が出ています(8巻224頁)。そこにも第二コリントのことが書いてあり、「キリストの故に」が正しい読みだと分かります。いわば、キリスト教の先進国であり、宗教改革を経験したドイツの聖書を見てみましょう。そこにはこう書いてあります。「Weil er mir zu Hilfe kommt」(主がわたしを助けに来てくださったが故に) ここで、助けるという言葉はギリシア語原典にはありませんが、個人の努力を強調するような誤りを避けるためには良い訳だと思います。キリスト教の後進国(失礼!)である、中国の聖書にさえ、「我為基督的縁故」(わたしはキリストのえにしの故に)と書かれています。ところが、日本の聖書翻訳は、事もあろうに、「私為基督」(わたしはキリストのために)というお粗末な訳になっているのです。こんなところから、日本では、キリスト教の皮をかぶった自分教信者、個人努力主義者、律法主義者が再生産される悲劇を生んでいるのです。わたしたちはむしろ、罪の病に苦しむ弱い存在です。ですから、冒頭の蕃山の言葉も、「憂きことのなおこの上につもれかし、弱き身の力ためさん」と変換してみると、さらに心に染み入る言葉となります。

 

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