「あなたはどこに行くのか」 マタイ9:35-10:15
最近、「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」の作曲で有名な筒美京平さんが亡くなりました。その他の有名人にも、無くなる方が多くいますが、有名人でもないわたしたちは、この世の命を終えてから、どこへいうのでしょうか。ところで、「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか? 」という長い題の絵があります。これはフランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵です。ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵の一つです。ゴーギャンは素朴な生活を求めていまから約130年前、1891年に、タヒチに渡りました。タヒチ滞在時代に描き上げたこの作品は、もっともゴーギャンの精神世界を描き出している作品と言われています。日本でも展示されたことがあります。
ゴーギャンの心情は何だったのか。
ゴーギャンは、この作品に様々な意味を持たせ、絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の、丁度3つの題名を表しています。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物はどこから来たのかをあらわし、中央の人物たちは成年期、今誰なのかを意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり将来の行くべき姿をしめしています。老婆の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残しています。
わたしは無力な絵に中にかろうじて生きている。
ゴーギャンは神学校の学生だったことがあります。つまり、司祭になろうと思っていたわけです。そこでの教理問答の授業がありました。その基本的な問答は「人間はどこから来たのか」、「どこへ行こうとするのか」、「人間はどうやって進歩していくのか 」でした。ゴーギャンは後にキリスト教に対して反発するようになりましたが、若いころに学んだキリスト教教理問答はゴーギャンの頭から離れることはなかったと言えます。
若き日の純粋な思いは、老年になっても消えない。
彼は貧しく無名のうちに死にました。タヒチで生活費の為に売った絵も薪がわりに燃やされてしまったそうです。でも、彼の「われわれはどこに行くのか」という問いかけは、人類の歴史のなかに消えませんでした。作品として残りました。そして、わたしたちの心中にも残影を投げかけています。また、それは今日でも、宗教的にはわたしたちの大切な問いではないでしょうか。筒美京平さんが亡くなり、あのころ、あれらの歌を聞きながら、青春の日々を送ったことも、少し寂しい残影となっていきます。
わたしたちは、どこに向かって進むのだろうか。
さて、イエス様の弟子たちの場合はどうだったでしょうか。彼らはどこから来たのでしょうか。福音書の日課であるマタイ9:35にはイエス様が全ての町を訪れて福音を伝えたとあります。弟子たちの出発点はこのイエス様の伝道によるものでした。マタイ福音書9章9節以下に書かれている徴税人のマタイの場合も同じでしたね。病気や思い煩いを癒された人々もまた、イエス様に従いました。彼らはまさに、苦しみの中から傷ついた羊のようにやってきたのです。ただここで、羊は弱さを象徴するだけではなく、昔から神の民を表す象徴でした。ですから、ここには、もとは神の民だったものが、本当の神を見失ってしまったこと、多くの重荷、罪の処罰の恐れ、宗教儀式の重荷などが起こっていたことが暗示されています。
では、彼らは何者だったのでしょうか。聖書によれば、彼らイエス様に憐れまれた人でした。憐れむと言う言葉は、聖書に用いられているギリシア語では、相手の悲しみを共感し、はらわたがちぎられるような痛みを覚えるという意味です。ここにも、イエス様が苦しむ者と共に歩まれたことが示されています。イエス様はその人たちの問題を上からの目線で見ていたのではなく、彼らの重荷を自分の重荷として引き受けてくださったのです。これが神の愛です。また、弟子たちはイエス様から多くのものを受けました。汚れた霊を癒す権能、病気を癒す権能などです。つまり、これによって、彼らは喜んでイエス様の働きの助手になったと言えます。彼らも愛の人になることができたのです。
愛の人に出会わなければ、愛の人にはなれない。
その彼らはどこに行こうとしていたのでしょうか。弟子たちの行く先は、失われた羊の場所でした。自分の死に場所ではなく、他者が死んだような姿になっている場所でした。失われた羊とは、先ほど述べたように、神との関係が途絶え、飼う者がいない羊のように、餓えたり病に冒され、孤立して苦しむ者の群れのことです。
イエス様の指示に従って、弟子たちは実際に旅にでました。しかし、この旅は、何も持たない旅でした。ただ、外面だけではなく、内面的にも人間的なものを携帯しないのが伝道です。祈りと愛にだけ支えられて生きて行くのです。彼らの行く先には、温かく迎える者たちと、冷たく拒絶する者たちがいました。イエス様は、拒絶する者は、ソドムやゴモラの破滅よりも厳しい裁きにあうとしています。そこまで厳しく言ったのは、神の使いである弟子たちを拒絶する者の前で、彼らがまことに弱い存在だったからでしょう。イエス様は、弱い弟子たちを励ましてくれたのです。実際に、伝道は弱い者たちによってなされました。聖書にも、「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる」(サムエル上2:4)とあります。弟子たちの働きは、痛みを覚えてくださる神に支えられて、やっと立つことができる、弱き祭司としての働きでした。弱くなければ神を伝えられません。
弱い者を、神は器として用いる。
それは霊的な傲慢や、自分には信仰があると考えて、信仰弱きものを下に見るものではありませんでした。祭司の役割は、自分の価値や、他人の価値を評価する者ではなく、あくまで神に仕え隣人に仕えるものでした。わたしたちも評価する者は警戒しましょう。状況が良くても悪くても喜んで仕えたいものです。神は愛ですから、神に仕えるとは、愛に従って生きることです。亡くなった筒美京平さんも、音楽を愛し、音楽に従って生き、その生涯を終えたがゆえに、彼の作品は、時空を超えて、愛されているのです。
これまで、わたしたちは弟子たちがどこから来たのかを見てみました。では、わたしたち自身は、どこから来たのでしょうか。そして、わたしたちは現在、何者でしょうか。宗教的問いかけなしの人生は浅薄なものになってしまいます。わたしたちは、病気を癒された姿、神との関係が修復された者、つまり罪赦された者として生かされています。それは強くなった訳ではありません。相変わらず弱い者、罪の重荷を負う者でしょう。
弱い者を神は愛して下さる。
しかし、弱さの中で、神が見捨ててないこと、必ず救ってくださることを確信することができます。もし、まだそうなっていないとしても、大丈夫です。今日、この時に、この聖書箇所を読んで、神の救い主イエス様に対して、「あなたを信じます」と告白するだけで救われるのです。神の救いも、愛と同じように、時空を超えています。なぜなら、神は愛だからです。そこにはユダヤ教が命じていたような多くの儀式、守らなければならない多くの律法が介在しません。建物のある教会は、あってもいいし、なくてもいいわけです。信じた、救われた、という単純な公式だけが真理です。真理は明快です。現代でも、これでいいのです。まさに、ジュリアス・シザーの有名な言葉、「Veni,Vidi,Vici.」(来た、見た、勝った)と同じです。わたし自身も、若いころ、初めてキリスト教を知り、来た、見た、信じた、の3点で救われたです。
そして、わたしたちはどこに行くのでしょうか。12人の弟子たちと同じだと思います。もはや自分の選んだ道をいくのではありません。使徒として、遣わされるのです。もう一度、毎日の生活の場に送りだされるのです。そこで祭司となり、神に仕える者の働きをするためです。わたしたちは食事の準備をする時も、赤ちゃんの世話をする時も、これは神の働きであるとしっかりした意識が必要です。神はこの働きを喜んでくださるという確信を持つならば、疲れも軽減されます。いや、イザヤ書にあるように、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)それが、ベルーフ、仕事、呼び出された者の恵みなのです。わたしたちの仕事は、レイバー(苦役)でしょうか、それともベルーフ(神の召命)なのでしょうか。
自分の人生を、神との関係で考えられるときに、罪の苦役は終わっている。
ゴーギャンは、人生がどこに向かうのかを問い続けました。ルターは教えました、「真のキリスト者は地上にあっては、自分自身のためではなく、隣人のために生き、隣人に仕える。」筒美京平さんだけでなく、隣人に仕え、隣人に慰めと喜びを与える、個人、会社、国家は消えずに残り、自分の利益しかない団体はいつか消え去ります。すばらしい教えを持ちながらも、現代の教会が衰退しているのは、自己維持のためだけに汲々としているからです。
一方、自分の命も捨てる覚悟で宗教改革に取り組んだルターは、ヨーロッパに蔓延した恐ろしい黒死病のエピデミックの際にも、それを恐れず、逃げず、生者を看病し、死者を手厚く葬った人です。これが、どこに行くかの答えだと思います。
行くべきところは場所ではなく、神の与える「場」であった。
隣人のために仕えること、それは「人々のために神に仕える職務」(ヘブライ5:1)であり、つまり祭司となることです。それは選択肢ではなく義務であり、それをしなければ魂は滅びてしまうとルターは言っています。旧約聖書に「あなたたちはわたしにとって祭司の王国となる」(出エジプト19:6)とある通りです。これが、聖書の偉大な預言です。インターネット教会は、すべてのひとに、このすばらしい使信、神の「場」を伝える器の一つです。では、「また逢う日まで」!