人間に絶望する映画「白いリボン」
見ました。何と、144分の映画でした。何となく、ドイツ語の勉強のために借りてきたDVDでしたが、空恐ろしい映画でした。監督のミヒャエル・ハネケという人は多くの映画賞を受賞している人のようです。そして、さらにショックだったのは、この映画が1913年のドイツの小さな農村を舞台にしていて、そこの宗教がプロテスタントのルーテル教会によるものだったことです(映画評論を書いている多くの人は、そのことを認識していません。中にはカトリックだと思っている人もいました。)。わたしもルーテル教会の牧師として数十年牧会してきましたが、優れた信仰の伝統を持つ国が、どうしてナチス党を生み、どうしてユダヤ人を虐殺したのかが理解できませんでした。しかし、この映画で少し理解できました。それは、弱者に対する、宗教的抑圧、権力的抑圧、生理的抑圧などが原因でした。抑圧された者、つまり被抑圧者が、抑圧者になっていくさまを、ミヒャエル・ハネケ監督は描いていると思います。悪の再生産です。特に残念だったのは、村の教会の礼拝で、ルター作曲の「神は我がやぐら」という讃美歌が子どもたちの美しく澄んだ声で合唱される裏で、その白く純潔であるはずの心が黒く醜く穢れていくさまが描かれていたからです。ただ、視点をかえると、これは人間の「原罪」を扱った哲学的な映画だとも考えられます。子供に限らす、その子供たちを抑圧していた大人たちも、自分が子供の時に抑圧されていたはずです。さらに残念なのは、宗教が完全に儀式化してしまい、そこに愛とか思いやりを感じられなくなっていたことです。わたしがアメリカで暮らしたときには、キリスト教の愛の深さを感じることができました。しかし、現在のヨーロッパに行っても、立派な教会堂は単なる歴史的遺構であって、生きた信仰はあまり見られないようです。これも、原罪のなせるわざでしょう。ミヒャエル・ハネケ監督は、その矛盾を熟知していると思いました。ただ、最後に逆転もあります。人間や人生に絶望して暗い気持ちになるのは、非宗教的思考の結末です。ところが、本物のキリスト教の思想では、人間が人間に絶望し(宗教儀式・司祭などの人間的所産等)、神にのみ、救いを求める時に、真の啓示と愛の認知があるのです。既成キリスト教が死ぬとき、神のキリストは復活するのです。そうした、宗教や、建造物や、司祭制度や、儀式に別れを告げて、原点を求めているのがインターネット教会です。これが、神のみ心かどうかはわかりません。しかし、少なくとも、弱い者を抑圧しない教会があってもいいのではないかと思っています。他者への絶望、会社や組織への絶望、自分自身への絶望は、実は、神への希望の大切な出発点であることを覚えておきましょう。