聖書研究

偽りのキリスト教徒にダメ押しの鉄槌を下すヤコブ

ヤコブの手紙2章14節 -17節       

文責 中川俊介

ヤコブはここで信仰の問題に触れます。厳しい内容ではありますが、14節に見られる「わたしの兄弟たち」という親しい語りかけは変わりません。親愛なる者であるからこそ大切な事は単刀直入に述べているのかもしれません。「ヤコブは教会内に生じていたある種の誤謬にたいして挑戦しているように見受けられる。」[1] それは、信仰があると豪語しながらも実際の行いがなくては何の役に立つでしょうか、という問いかけです。「このように信仰と行いの密接な結びつきは、多くの釈義家をして、ヤコブ書はパウロの教えに反するとしたルターの考えに導いた。」[2] ただし、現代ではそれほどこの傾向は強くないようです。なぜなら、ヤコブの述べる愛の行いと、パウロの述べる律法の行いでは文脈が違うからです。「ヤコブでは、信仰そのものが行為なのです。」[3] ここでは、行いがなくても信仰があればよいという態度とは全く別の姿勢が見られます。文中の「役に立つ」という訳は、少し功利的な響きを持っていますが、元来は、いったいどんな助けになるだろうかという意味でもあります。そこには、何かしらの呆れた思いが秘められていることも事実です。そうした言葉が出て来る背景を考えてみると、信仰を持っていると自称しながら、その実、その人の生活には信仰が反映されていない場合が多く見られたためではないでしょうか。「この当時でさえも偽りのキリスト教徒はこの教えを悪用し、またパウロの言葉を、パウロの意図とは反対の意味に用いたのであった。」[4] それは、現代の教会でも起こりうる事柄です。例えば「主の祈り」をはじめとして、聖書には赦しに関する教えが豊富ですが、罪ある人間の集団では、その教えがいとも簡単に無視され、対人関係には応用されず、信仰を単なる心の中の問題として考える傾向があります。「ヤコブが論駁している信仰とは、信仰を単なる敬虔な心情とか知的に教義を受け入れるだけの態度とする事である。」[5] ヤコブが警告を与えているのは、そうした、教えと現実行動が分離した状態です。

勿論、キリスト教の教義では行いによって救われるとなっているわけではありません。行いがなくても救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。ヤコブが語りかけているのもそうした信仰における兄弟姉妹であるはずです。そうでなければ、「わたしの兄弟たち」という表現は用いないでしょう。しかし、救われている信仰の同胞たちの間に、まだまだ、過去の遺物というか、人間的な欺瞞が残っていたと考えられます。だから、ヤコブにとっては、そんな二重人格のような態度は、呆れるようなことであり、信仰生活の助けにはならない、と言いたいのだと思います。

この場合の行いは、ギリシア語の「エルゴン」であり、本来なすべき責任を負った事柄という意味ですから、それは、聖書に即して、人間が神の前になすべき事柄と言えるでしょう。ですから、行いがないというのは、単に行動がないのではなく、神の命じたもう責務に対する従順な行為に欠けるという重要な意味を持っています。イエス様にまつわる実話にも出てきますが、イエス様に従うと言いながらも、実際には日常の雑務を優先してしまう人間の姿があったわけです。生まれながらの人間は、神のエルゴンを成しえないのです。そこに、当人は気付いていないのかもしれません。だからこそ、ヤコブの指摘は有意義であると言えるでしょう。人間が自分の力で、そのような自己欺瞞を改善し、性格改造することは不可能ですが、まず、自分の置かれた欺瞞的な立場と盲点を自覚することは大切です。

ヤコブはさらに続けます。そのような「信仰」がその人を救うことはできないというのです。ここでは信仰という言葉に定冠詞がついていて、「そのような」となっていますので、ヤコブは信仰そのものを否定しているのではなく、当時蔓延していた虚偽的な信仰をさしていることがわかります。皮肉なことに、信仰と訳されているギリシア語は「ピステス」であり、真実という意味もあります。ですから、虚偽の信仰とは、虚偽の真実と言い換えてもよく、それは自己矛盾に陥るわけです。また、この部分は翻訳によっては「救うことができますか」、という疑問形になっている時もあります。口語訳聖書では、「その信仰は彼を救うことはできるか」、となっています。つまり、すでに救われているはずの信仰の同胞たちなのですが、その時代に彼らが陥っていた二枚舌のような信仰は救いとは関係ないと言いたいのでしょう。ヤコブは救いの原点を鋭く指摘していると思います。イエス様の教えた信仰はまさに言行一致でした。その故に、異邦人であるローマの百人隊長が言行一致の姿勢を示したときに、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)、とイエス様は語ったのです。ヤコブも同じ視点に立っていると思います。「まことの信仰は、必ずや実践へと展開、結実せねばやまないものなのである。」[6] ですから、勿論、信仰によってのみ義とされるのですが、その信仰はけっして言葉だけのものではなかったのです。ルターも行いによる救いの可能性を否定し「信仰のみ」を教えましたが、その信仰は命がけの信仰でもありました。嘘のない言行一致の信仰で救われるのは間違いありません。ですから、ヤコブも教会員にそれを望んでいたのです。「ヤコブがここで論じている議論は、確かにパウロが論じているものとは違う。信仰と行い。そして義認における両者の関係の理解が正しく解釈されることによって、パウロとヤコブは一つに結び合わされる。」[7] そこにあるのは、イエス様の教えとパウロの教えの一致でもあるといえるでしょう。

次に、15節でヤコブは具体例をあげます。「ヤコブが主張する命題は、まず15-17節において実生活からとった印象深い事例によって説き明かされる。」[8] そうでなければ、ヤコブが語る事柄も同じように空理空論、口先だけのことがらになってしまうからです。ヤコブは教会の兄弟姉妹が何も持っていないで裸のようであり、また毎日の食べ物にも欠けている状況があると仮定します。この状況設定は非常に具体的だと思います。衣食住とも言いますが、人間生活に必要な三要素が欠けていて、本当に困窮状態に置かれた人々がいたわけです。それは単なる仮定ではなく、実際に教会の会員(兄弟姉妹)の中にも存在したことは疑いもない事実でしょう。だから、ヤコブの例話は説得力があっただろうと思います。「このたとえは、ヤコブが実際に心から感じていた問題を反映している。」[9]

そして、16節で、このように衣食住の問題を抱えた教会の兄弟姉妹に、体に必要なものは何一つ与えず、平安をもって行きなさい、そして暖まって満腹になりなさい、と言ったところで何の助けになるだろうか、と言うのです。「これらの動詞は命令形であるがゆえに、なにかしらの祈願祈祷の形式をあらわしているようにみえる。」[10] それは、ある面で慇懃無礼かつ空疎な挨拶を示しているとも言えます。「神が汝を支えたまわんことをというのは、言い換えれば、我は汝を助けず、ということである。」[11] ここでヤコブは、14節と同じ表現を用いており、行いを伴わない信仰が「いったいどんな助けになるだろうか」と述べています。つまり、信仰というものが、個人的なご都合主義に陥っている状況をヤコブは危惧し、信仰というものを、神の愛を困窮している他者に向けて及ぼす具体的な手段として考えるべきだと教えているわけです。内向きではなく外向きなのです。イエス様が「良きサマリア人」の例話で説いた愛と行い。これが、ヤコブ書にも見られると思います。「我思う故に我あり」というように、自分から出発して自分に帰結するような内向きの近代思想ではなく、愛なる神から出発して、自分を通して、他者に貢献するダイナミックな信仰というものが提示されています。単なる善行ではありません。「愛は霊と同じように、人間の自我がキリストと共に死んで甦ったということを意味している。私が生きているのではなくて、キリストが私の中に生きておられる。」[12] 神が信仰者に望んでおられる責任義務を無視しては信仰生活が成り立たないのです。「ヤコブが要求するところの『行い』とは、明らかに愛の戒めを成就する慈善・愛の行為を意味する。」[13] 神が愛する貧しき人々を、空手で返し、「平安がありますように」という祈願をしたところで何の助けになりますか、いや、助けどころか、神の御心に反しているだけですと言いたいわけです。「人々は、キリスト者の兄弟・姉妹に対する彼らの義務を思い出そうとしない。」[14] これが単なる善行と違うのは、出発点が自分の自由意思ではなく、神がわたしたちに求める愛の責務だからです。「信仰と行為を分けてしまう人は、信仰を自分の救い中心に考え、神の栄光を中心に考えない人です。」[15] 信仰も行いも自分の内的要求から出発する時には、イエス様が批判した偽善行為になってしまうのではないでしょうか。その点を、わたしたちはヤコブ書から学ぶ必要があります。まさに、パウロやルターが否定した行いとは、そうした自己義認的な行為の事だったのです。それはヤコブも同意見だと思います。

最後に、17節で、ヤコブは結論をまとめます。新共同訳には訳出されていませんが、冒頭に原語では「ですから」、と書かれています。ヤコブとしては、単に冷淡な富裕層を批判するのではなく(彼らも同じ主を信じる兄弟姉妹であることには違いないので)、信仰が死物化(私物化)してはいけないと諭しています。死んでいるとはギリシア語の「ネクロス」であり、活動力のない状態であり、命である神から離れている状態のことを示しています。ただ、ヤコブは、あなたが悪いと決して言わないのは何故でしょうか。それは、人間には罪があり、他者に冷淡であり、自己中心であることは自明の理であるからです。「サタンに騙された人が良心の覚醒を伴わない信仰告白を行うことがあり得るのです。」[16] 肉なる人間がまだ罪の中に生活しているのは事実であり、そこからは、死んだ信仰や虚構の信仰によってではなく、イエス様が聖霊の付与によって与えて下さる言行一致の信仰によって救われるのです。この聖霊を受けるには、純粋な悔い改めが必要なのです。「信仰と行いは、生命と呼吸のように、一対であり、前者は後者なくして存在できない。」[17] イエス様は例話で、飢えた者や、着るものがない者、病んでいる者を助けた者に対して、「正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ25:46)と述べています。正しいものとなるには、まず、外科手術のように罪の病変部が切開されなければなりません。「真の信仰は、罪の悔い改めを伴うものです。」[18] 死んだ信仰を、生きた信仰と取り違えてはいけないのです。これは、確かな指摘だと思います。信仰がこうした岩のような土台、つまり言行一致、の上に据えられることをイエス様は願って、弟子のペトロに「この岩の上にわたしの教会をたてる」(マタイ16:18)と言われたのです。日本に多く見られる偶像礼拝的な神信仰ではなく、救い主イエス・キリストに対する真実な信仰は、必ず神の愛の行いを生み出すでしょう。

[1] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、80頁

[2] 前掲、マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、80頁

[3] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、162頁

[4] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、64頁

[5] 前掲、マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、80頁

[6]  シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、49頁

[7]  D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、114頁

[8] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、49頁

[9] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、118頁

[10] 前掲、マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、84頁

[11] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、69頁

[12] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、104頁

[13] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、116頁

[14] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、182頁

[15] 前掲、蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、163頁

[16] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、56頁

[17] 前掲、マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、85頁

[18] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、55頁

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