今週の説教

死ぬほどの苦しみを肯定的に理解したい時に読む説教

「あなたを死刑にする」   ルカ18:31-43

イエス様はご自分のことを預言しました。それは神の都エルサエムで、逮捕され、侮辱され、拷問され、唾をかけられ、鞭打たれて殺害されるという事です。普通ではない形で死刑にされるという事です。わたしたちはこれを、イエス・キリストの受難と呼んでいます。受難という言葉で割り切ってしまうと簡単です。しかし、この死刑は簡単なことではありません。なぜそこまで救い主が憎しまれたのでしょうか。そして、福音書はこの死刑のことに多くの部分を費やしています。ただ、それまでイエス様と寝食を共にして3年間伝道した弟子たちにも、このイエス様がご自分の事に関して語った預言の意味が理解できなかったのです。では、わたしたちはどうでしょうか。イエス様の十字架の預言は、もはや預言ではなく、実際に怒った歴史的な出来事です。それでも、イエス・キリストの死刑の意味を十分に理解することが大切なのはかわりがありません。

さて、日本での死刑の賛成論を見てみましょう。ヨーロッパ諸国を初め死刑廃止が多い外国と違って日本では賛成派が圧倒的に多く、8割以上の人が死刑を支持しています。どうしてでしょうか。死刑支持の大きな理由は報復です。恨みを晴らしたい遺族の感情を大切にするものです。それに、加害者を生かしておくと再び同様な犯罪をおこす恐れがあるということです。死刑にしないと心配だという事です。一方、死刑反対の意見には、冤罪が多いことがあげられています。免田裁判という冤罪事件がありました。免田さんは1948年の熊本での祈祷師一家殺害事件で死刑囚とされ、以後、無罪となるまで31年間監獄に入れられました。わたしが九州の教会にいたときに免田さんに来ていただいて、講演してもらったこともあります。さて死刑反対論ですが、憲法36条が禁じている、拷問や残酷な刑罰の禁止にあたるという事です。また、死刑は犯罪抑止効果がないということもあげられています。

イエス様が当時では最も残酷な十字架刑になったのは何故でしょうか。殺人ではないならば、なんで死刑なのでしょうか。これは既成の社会に対する危険思想ということでしょう。こういう人を生かしておくと、社会に混乱が生じるという事です。ルターより100年くらいの前の聖職者ヤン・フスは、大学の学長までした知識人でしたが、免罪符を批判したことにより、当時としてはもっとも残酷な火あぶりの刑で処刑されました。これも危険思想とみなされたからです。では、イエス様の危険思想とは何だったのでしょうか。イエス様の裁判記録は聖書にあります。そのいくつかをあげれば、自分をメシアだとしたこと、安息日の否定、もう一つは、エルサレムの神殿の崩壊を預言したことなどです。

イエス様は自分が十字架につけられるということを3回予告されました。3度とは、それが重要な事柄であることを意味しています。決定的です。実は、それと似たことがイエス様の時代の600年前に起こっています。預言者エレミヤの時代です。エレミヤは、人々が神の言葉に聞き従わないのでエルサレムの神殿も滅びてしまうことを預言しました。すると、当時の指導者だった祭司や学者は、彼を死刑にしようとしたのです。彼らの理由はこれでした。つまり、エレミヤ書26:11にあるように「この都に敵対する預言をしました」ということでした。自分たちが大切にしていた都を侮辱されたと怒ったのです。怒りの原因は、既存の価値観の否定です。イエス様の死刑、ヤン・フスの死刑、預言者の死刑も、社会の価値観を否定していると誤解されたからです。

以前、栃木県佐野市にある田中正造記念館に行く機会がありました。田中正造は帝国議会の議員でしたが、足尾銅山の公害に反対して明治天皇に直訴したのです。彼は処刑されませんでしたが、その原文を書いた幸徳秋水は、帝国主義と皇室に反対したとされて死刑にされています。これも社会の価値観に対する危険思想でした。当時の人々は、神の助けがないので真実が見えていませんでした。

パウロも同じように人々の無理解を述べています。フィリピ書3:18に、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と書いてあります。つまり、エレミヤを殺そうとした祭司や律法学者のように、自分が正しいという価値観で、神が遣わした者を迫害してしまうのです。キリスト教神学では、牧師も神が教会に遣わしている者だと考えます。つまり社会的な欲望追求を捨てて神に仕える人ということです。ところが、外国には新任牧師に関する諺があります。初年度は会員の言葉は、「神のみなによって来る者に祝福あれ」、次年度は、「彼は何の権威であのように語るのか」、三年目は「彼を追放せよ」となります。イエス様の3年の伝道にかけ合わせているのですね。神が派遣しているという理解がなかなかできないのです。

無理解というのは、良い関係に進めないことです。ルカ23:34を見ますと、イエス様は敵を赦してくださいと神に祈り、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言ったと書いてあります。これが、まさにその頃の弟子たちの状況でもありました。弟子たちは、イエス様の栄光とか、奇跡とか、素晴らしい奉仕の方にしか目がいかず、受難のことについては何も理解できていなかったのです。復活のイエス様が弟子たちに霊的に聖書を説き明かされるまで隠されたままだったのです。「この世のことしか考えていない」人々だったからです。価値観がこの世が中心でした。パウロも「十字架の言葉は、滅んでいくものには愚かな言葉ですが、わたしたち救われる者には神の力です」(第一コリント1:18)と述べています。

これは、当時の弟子たちにはわかりませんでしたから、まだ滅んでいく者だったのです。ステファノの死刑を目撃したパウロもやはり滅んでいく者でした。そうです。まだ、聖霊を受けていなかったのです。イエス様を裏切ってから回心した後のペトロも「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、乳飲み子のように霊の乳を慕い求めなさい」(第一ペトロ2:1)と教えています。神の霊によらなければ、価値観の転換はありえないし、イエス様を死刑にした人たちと同じなのです。イエス様の死刑では、わたしたちがその死刑を命じた人たちだと同じだと聖書は語っているのです。イエス様に「あなたは死刑」だと言ったのはわたしたちなのです。讃美歌にも、「主をはずかしめ傷つけたるは、だれの業ぞ。われらみ前に犯せし罪を主にいいあらわさん。」(ルーテル教会讃美歌74番)これは、ドイツコラール、つまり宗教改革後の讃美歌の最も偉大な作詞者パウル・ゲルハルトによる作詞です。牧師だったゲルハルトは神学的主題を作詞に応用しましたが、最も有名な作詞は「血潮したたる主のみかしら」でバッハの曲による有名なものです。十字架の曲には甘い感傷的なものあり、勇ましいものも多くありますが、パウル・ゲルハルトは自分がイエス・キリストを死刑にしたものだと、霊的に理解できたのです。自分が苦しめられているのではなく、自分が自分や他者を苦しめているのです。これが分かると、わたしたちも、ペトロやパウロなどと同じように価値観が転換し、十字架を宣べ伝える者となるでしょう。ですから、神が、神の子イエス・キリストを悪人の手に渡し、残酷に処刑されることを、痛みをもって許したことは無駄ではなかったのです。

 

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