ちあきなおみの「冬隣」を聴いていて泪がこみあげた
冬隣とは晩秋のことらしい。昨今の賑やかなリズムと大音響の音楽と違い、この曲は、そのノメロディーと歌詞が胸に迫る。とくに、ちあきなおみの掠れたような寂しげな声の響きが、今は亡き親しき人々をしみじみ想起させる。この季節に、この曲を聞くと、無性に心にしみわたる。コロナ禍で失ったものが多いときに、この曲をきくと、きっと悲しみが浄化され、静かな透明性の中に沈殿していくだろう。そこに癒しがある。そういえば、昔の素晴らしい歌には、癒しの働きがあった。それは言葉と音の結合体だからだと思う。こういう曲を生み出すことのできる日本の文化を大切にしたい。東洋のグレゴリアン賛歌のようにも思える。そういえば、イスラエルに住んでいた時に、ユダヤ教の礼拝堂で、司式者が詩編を歌ったのを聞いて感動したことがあった。これも言葉と音の結合だ。このように優れた曲が、現代の讃美歌にもあったよいのだが、感情をあおる讃美だけであって、言葉が薄いし、音の素晴らしを感じとれない。自分には作詞・作曲の能力がないのが残念でならない。誰か有能な人がおこされるのを祈りたい。文字や理屈だけのキリスト教には限界がある。映像、音、み言葉を融合させて、人々の傷を癒し、気持ちを明るくし、愛の社会を実現しなければならない。