印西インターネット教会

愛をはかるモノサシ

「ムーランルージュ」という映画があります。華やかなパリの舞台のスターと貧しい作家の青年のあいだの小さな恋の物語です。そのなかで、「人生最高の幸福は愛する人がいて、また、自分が愛されていることを知っていることだ」、というようなセリフがあります。どんな美しい景色を見ても、どんな豪華な食事をしても、何かの業績でトップになっても、どんなに多くの財産を所有しても、愛がなければ人生は不幸だと思います。逆に、何も所有せず、他人より優れた点もなく、無に近い存在であっても、愛する人がいて、また、その人に愛されていることを知っているなら、幸せな人生です。では、ここで質問です。愛が大切なのはわかります。でも、その愛をどのように計測することができるのでしょうか。愛のモノサシは何でしょうか。ある日、そのことを考えていたら、「愛をはかるモノサシとは、愛する人のために死ぬことが出来るかどうか」だと啓示されました。絶対的自己犠牲です。その反対に、ストーカーなどの愛は、単なる自己中心的執着であり、肥大化した自己愛に過ぎず、それは相手を苦しめても何も感じない鈍感さにあらわされます。絶対愛とは、絶対的自己犠牲にほかなりません。わたしには4人の子供がいます。それぞれ成人して家庭を持っています。しかし、彼らの誰かが、難病を患い、他者の命と引き換えにしか生き残れないとしたらどうでしょうか。単なる、部分的臓器移植ではないのです。命の交換です。ここに、愛のモノサシがあると思います。皆さんならどうでしょうか。自分の命を捨てても相手を生かしたいと思わないでしょうか。真実に思えるならそれは絶対愛です。思えないなら、単なる愛着です。この問いかけを自問自答してみる価値はあるでしょう。わたしの場合、子供たちの為、そして伴侶の為に、自分の命を犠牲にする、用意はあるように思いました。その愛は、もともとの自分にはなかったものであり、聖書から学び、生活の中で賜物として与えられてきたものなのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15章13節)伝統的キリスト教神学では、イエス・キリストの十字架を、贖罪論として理解し、罪の代価を支払ったという法的な妥当性で考えるのが普通ですが、絶対愛の帰結として罪人のために聖者が自己犠牲を行ったという神学があまり見られないのは残念です。ルーテル教会出身の神学者、故北森嘉蔵先生が目指した「神の痛みの神学」はその方向だったのでしょうか。若い研究者に追及してほしい課題です。最後に、わたしの結論。「人生最高の幸福は、神を愛し、また、自分が神に愛されていることを知っていること。」これをよく理解できない人は、まず、詩編23編を読み、それからダビデについて書いてある旧約聖書の箇所を通読してみてください。

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