ヤコブの手紙3章1節 -5節
さて、ヤコブは3章1節から厳しく警告します。「前章と同様、具体的な諸事情あるいは悪風潮の数々から筆者は論じ始める。」[1] それは、特にヤコブが面識を持っている教会内の人々の人間関係に関するものです。「おそらく、2:14-26における『行い』という大きなテーマが、この区分にも関連しているのであろう。」[2] 不思議なことに、さらに多くの伝道者を求めるのではなく、ヤコブは多くの人は教師にならない方がよいと述べるのです。ここでは、「ことばを語ることに対する責任の強調」[3]、が見られます。「この句の文頭に置かれた否定語メーは強調をあらわす。」[4] この際の、教師という言葉は、ギリシア語のディダスカロスであり、ディダケー(12使徒の遺訓、1世紀後半)、などの語源である言葉です。ですから、この場合の教師とは、学校の教員ではなく、教会員に福音の教えを伝える者であるわけです。しかし、ヤコブが敢えてそういう立場に身を置く必要はないと勧告するのは何故でしょうか。それも、かなり強い表現で禁じているのです。「逆説的に言えば、自らできないことを知っている人だけが、教師になることができると言えるでしょう。」[5]
また、教師となるというのには、自分から選ぶのではなく、教師として制定されるとか、作られるという意味の言葉が用いられています。つまり、受け身です。自分から選ぶのではなく、教会によって教師として認定されることなのです。それに、注意しなければならないのは、教師は特に厳しい裁きを受けるからだと、ヤコブは言います。その背景には、安易な気持ちで教師になろうとしたものが多くいたからだと考える研究者もいます。あるいは、「マーティンは、教えることを主張する人々の間の争いが、諸教会において困難を引き起こしたと示唆する。」[6] つまり、ヤコブの時代には教会が組織として確立しており、教師が特権的な立場となっていたことから、問題が生じたとも考えられます。だから、ヤコブは地位を狙う者や自己主張する者に警告するのです。そうした者の受ける裁きも最大級のものです。「自分が実行していない真理を他人に教えることは、真理の元でいます御方を侮辱することになります。」[7] それにしても、救われているはずの者が、何故、こうした厳しい裁きを受けるのでしょうか。そして、それは、ヤコブが言うだけでなく、一般信徒もそのことは知っているというのです。きっと何かの実例があるのでしょう。イエス様も「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(ルカ20:47)、と述べています。おそらく、ヤコブの手紙の読者たちもその福音書の言葉を既に知っていたのでしょう。「自分自身の教えから恩恵を得ないで生活するような教師は、避けられるべきである。」[8] 初代教会においては、自分の利益を第一にしたり、み言葉ではなく社会の権威におもねるような不適切な教師の問題が蔓延していました。もし、教会に反省を促すヤコブの手紙のような厳しさがなかったら、初代教会は外部からの迫害だけではなく、内部の腐敗によって消滅の危機に立たされていたかも知れません。
2節には、その理由が述べられます。その理由とは、「多くの、そして様々なる事柄とやり方において」[9]、人は例外なく道徳的な意味で過ちを犯す可能性があるからだとします。ですから、ヤコブはその中に自分自身も入れているのです。聖書にも、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(第一ヨハネ1:8)、と書いてあるとおりです。そして、もし、誰かが言葉において道徳的な過ちを犯さないならば、その人は十分に成長しきった(完全な)人物であり、言葉を制御できる人は、体全体にくつわをかけて制御できるのだというのです。それは到達可能な理想としてではなく、ヤコブは一つの仮定として述べていることでしょう。勿論、自分がそのように制御できていると豪語しているわけでもありません。「ひとりひとり独自の罪と悪癖を持っている。しかし、彼ら全員が持っている共通なものが一つある。それは舌の罪である。」[10] 人間の内部に潜む罪が、あたかも灼熱の間欠泉のように、例外なく舌を通して噴き出すのです。「どのように信仰深そうに装っても、何かの問題が起きた時、口から私たちの成長を正確に表現する言葉が出てきます。」[11] わたしたちも、その点を自覚することが、罪の告白となることでしょう。「思いと、言葉と、行い」によって罪を犯すという礼拝式の言葉そのものです。「ヤコブはその叱責の中に自分自身を含めている。」[12] ですから、わたしたちも、この点における癒しと赦しを求めたいものです。特に、教会において教師とか役員などの奉仕者がイエス・キリストの教えに従うことが、全体の利益になるとヤコブは知っていました。つまり、ヤコブなりの組織論、あるいは教会論が展開されているのです。教会論のない集団は、信仰心があってもそれが個人の固執になりやすく、崩壊しやすいものです。その点においても、ヤコブの手紙の現代的な価値が認識されるべきではないでしょうか。
3節には、「見よ」という言葉が文頭に来て、それが強調点だとわかります。落ち着けるために馬の口にくつわを入れるように、人の口にくつわをかけるならば、その人は、体全体を制御できると、2節と同じ内容を繰り返します。パウロの考えによれば、体とは教会の象徴です。また、ここでは言葉の制御を述べているわけですが、ルターが「人は悪魔か、天使かに乗られている馬に過ぎない」と言っているように、人間はこうした事柄には受動的であり、自分から制御できるものなのでしょうか。ヤコブの強調する、「くつわ」をかけるのはいったい誰なのでしょうか。それは、この章の後半の部分で明らかにされる、神からの啓示なのです。「失言しない方法は、心をキリストの支配下に委ね、肉を不活発にしておくことです。」[13] まず、キリストの体なる教会のリーダーが、聖霊の導きに従い口に「くつわ」をかけていただくことです。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。」(第二コリント2:11)
4節でも、文頭は「見よ」という強調表現が文頭に来ています。そしてここでは別の例が述べられています。今度は船です。ここで用いられているギリシア語の船を意味するプロイオンは、パウロが外国航路で乗った船のようにとても大きなもので、300人ぐらいが乗れるようなものだったようです。ヤコブがイメージしていたのはこのような船であり、そうした船がどのような海域を航海していたかを知っていたわけです。1章6節にあった、「風に吹かれて揺れ動く海の波」という表現に通ずるものがあります。そして、こうした大型船も激しい風に押し流されながらも、最も小さな梶によって操舵できるわけです。そして、操舵手の決定する方向にまっすぐ進ませることができるのです。つまり、馬のくつわと同じように、大きな船も梶によってコントロールできるのだから、人間、特に教会の責任者は言葉のコントロール、つまり感情の制御によってキリストの体全体である教会をみ言葉に従ってコントロールしてほしいという、ヤコブの願いを伝えているのではないでしょうか。それは、「様々の本能的衝動に対する理性の支配を描いて見せるために用いられた」[14]、譬えなのです。ただ、誤解を避けるならば、肉的な理性ではなく、霊的な判断が強調されていると思います。
5節では、くつわや舵に譬えられていたものが、舌であることがわかります。それは小さな器官です。そして傲慢に話すことは火であり、わずかの火が、非常に大きな火となり、非常に大きな森を燃やすというのです。「舌は過去に関し、また未来を望みみて非常に自負的な主張をなすものである。」[15] ここでも、ヤコブは「見よ」という強調表現を用いて、その類比は一貫しており、小さなものが大きなものに影響を与えるということです。「舌の譬えは、大きな破滅が身近なところにあることを示している。」[16] ヤコブはこうした危険に対してとても注意深かったわけです。それは、わたしたちに対する示唆でもあります。
[1] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、117頁
[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、137頁
[3] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、61頁
[4] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、107頁
[5] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、167頁
[6] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、186頁
[7] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、68頁
[8] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、187頁
[9] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、85頁
[10] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、119頁
[11] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、69頁
[12] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、139頁
[13] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、71頁
[14] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、62頁
[15] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、88頁
[16] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、113頁