舌は火と不義の世界
ヤコブの手紙3章6節 -12節
舌についての議論は6節でも続きます。「6節では舌の本質について原理的な発言をする。」[1] そして、舌は火と不義の世界だとヤコブは語ります。ここには世界とか、宇宙とかいう壮大な表現が用いられています。では、ここでヤコブが語る「不義」とは何でしょうか。詳しく見ると、ここでの「不義」という言葉にはディカイオス(義)に反意語のアを加えたアディキアが用いられていますので、そこには、ユダヤ教的な思想が反映されており、ヤコブは神の意思に合致していないことを「不義」と言っているのがわかります。単なる道徳的な誤りではないのです。ですから、神がすべてを支配されるときにも、それに反抗的な人々がいるということが指摘されています。また、火についてですが、これはユダヤ教の概念では、地獄で燃える神の怒りをあらわしています。であるとすると、舌の濫用は、まさに神の意思に反し、裁きに値する所作なわけです。ですから、ヤコブはここで、言葉上の丁寧さを推奨しているのではなく、舌によって発せられる人間の言葉が、神の意思に逆らう危険、という原理的な問題に対して警告しているのだと思います。
そして、舌はわたしたちの肢体の一部として設定されていながら、その範囲を越えて体全体に影響を及ぼし、それを汚すことがおこりうるのです。「舌は、教会を意味する体の中に置かれた行為のことであり、それは制御することが非常に困難である。(中略)疑いもなく、これは教会内における悪意に満ちた状況を視野に置いているのである。」[2] 不法の者は、「舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」(詩編40:4)、とある通りです。それは、人生の車輪を焼くもの、地獄の火によって焼かれるものだと述べられます。新共同訳では、「移り変わる人生」と訳されています。新約聖書におけるイエス様の言葉にも、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15:11)、とあります。それにしても、原語にある車輪とは何を意味しているのでしょうか。珍しい表現です。「この句は異教に現れ、再生あるいは自然の循環を示す。」[3] 日本人にわかりやすい表現に訳すなら、輪廻転生と言ってもよいでしょう。ヤコブはすべてが火に包まれて滅びることを読者に示すために、かなり過激で異教的な表現を用います。しかしそれは、ヤコブが異教思想に影響されていたのではなく、当時はこのような表現が一般的に理解されていたので、ヤコブは意思疎通のためにあえて用いたのでしょう。相手の置かれた立場に立ったヤコブ独特の叙述方法だといえます。また、この車輪とは、ギリシア語のトロコスであり、トロッコの語源です。つまり、人生の歩みを進めていく回転軸、あるいは人間の全本性のようなものが示されているのですが、それを焼いてしまうというのは、人生をめちゃめちゃにして破滅することを意味します。最後に行きつくのは地獄です。舌にはそうした、神の意思に反抗する悪魔的な潜在力があるというのです。「棒切れや石による傷は治るかもしれない。しかし、ことばによる傷は時に治らないことがある。」[4]
7節でヤコブはその理由を述べます。すべての、野の生き物、鳥、はうもの、そして海の生き物も、制御されているし、人間によって飼いならされ、自然界の秩序のもとに置かれています。それは、創世記にある、被造物に対する人間の役割と呼応しています。
ところが、8節を見ますと、舌はこの範疇からはずれます。人間は、他の被造物の制御はできても、自分の舌の制御はできないのです。「ですから失言とは、人前では言うべきでない事を自制が効かなくなった時に語ることです。」[5] この点においては、だれ一人、例外なく、制御できないわけです。それは悪い安定を欠いたものであり、死の毒に満ちたものなのです。ですから、アウグスチヌスが述べたように、「もしも舌を制することができた時は、それは神のあわれみ、助け、恵みによってもたらされたことだと、われわれは告白するのである」[6]、と考えた方がよいでしょう。 ヤコブもこのことは十分にわかっていたことでしょう。ですから、ここではっきり言えることは、ヤコブは舌の制御を、人間の道徳上の達成目標としては決して考えてはいないということです。
9節には皮肉な表現が見られます。その死の毒に満ちた舌で、わたしたちは主なる神、父なる神を賛美しているというのです。賛美というのはユダヤ教的な表現であり、豊かに祝福を与えるとか、ほめたたえるなどの意味があります。「神をほめたたえることは、ユダヤ人の祈祷においては重要な部分であった。」[7] ヘブライ語の「バルク・アタ・アドナイ、主なるあなたを称えます」、は頻繁に用いられる礼拝表現です。であるとすると、これはまさにヤコブが教会礼拝に言及していることだと推測されるわけです。人間の舌が清められないままに、礼拝の中で神聖な言葉を発していることを問題視しているわけです。ヤコブはそこに矛盾を感じています。そんな両刀使いのようなことが可能なのでしょうか。神を賛美しながら、一方で、神に似せて創造された人を呪うのです。ユダヤ人は、神が人を創造したことへの畏敬の念から、隣人を尊重し、殺人を禁止してきました(モーセ十戒、参照)。ですから、ユダヤ教でも人を呪ったり、辱めることは禁じられていたわけです。ただし、「初代教会では、公式の呪いは必ずしも厳しく禁止されたものではなかった。」[8] 「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。」(第一コリント16:22、参照)ですから、ヤコブが禁じる呪いとは、その場の感情の激高からでてくる突発的な呪いのことだと思われます。一般的には呪いが禁止されていたのに、こういう問題がでていた背景としては、教会内における贖罪の意識にかなりの温度差があったからだと思われます。自分が赦された自覚がないので隣人を赦すことなど夢にも思わないのです。ヤコブは躊躇せず、同じ舌を用いて相反することをしてはいけないと諭します。この点はヤコブ書に一貫しています。「すべての教会員はこの罪に対して警戒する必要がある。」[9] 舌の問題は罪の問題だといえます。
さて、10節はどうでしょうか。ここでは悪の元凶は舌ではなく口になっています。同じ口から賛美と呪いが出て来るようなことはなされるべきではないと、ヤコブは教会の兄弟に向かって諌めています。「筆者は自分の本来の主題である人間の二元性、信仰と罪とに引き裂かれた人間の二元性の主題に立ち返る。」[10] これも兄弟に対する注意事項ですから、教会外の一般人に対するものではなく、教会員の日常に関することだと考えてよいでしょう。原文のニュアンスを調べてみますと、この部分は、決してあってはならないという非常に強く断定的な表現となっています。現代の教会では、福音主義というものが、この世的な優しさとか道徳として解釈されやすく、ヤコブ書のような強い否定がないものですから、教会内でも賛美と呪いの二重構造があたりまえのように許容されてしまう可能性があるわけです。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)「この人間は神にも罪にも仕えられる両生類である。」[11] こうして、決してあってはならないことが、教会内にも存在してしまうのです。「ヤコブも人の口から出ることばというものをその人の霊性の指標と見ている。」[12] 言葉の問題は霊性の問題でもあります。それにしても、神との関係である罪の根本的な問題が解決されない限り、こうした舌や口の問題は解決できないでしょう。
ヤコブ独特の比喩が11節に見られます。甘い泉と苦い泉の比較です。同じ泉源の開口部から、甘い泉(きれいな水)と苦い泉(飲めない水)が噴出することはないわけです。これは、誰にでも理解できることだったと思います。ところが舌はそうした自然の摂理にみられる一貫性がありません。「このことは、舌が無節操、軽薄、かつ放銃な悪者であることを雄弁に物語っている。」[13] 動物も植物も、また自然現象も神の摂理と秩序に従っているのに、人間の舌だけが逆らっているのです。つまり、究極的には、神の意思に反抗しているのです。まさにバベルの塔をたてた人間の罪の姿なのです。そこに罪の根源を見る思いがします。ヤコブはそうした根本的矛盾に焦点を当てています。
12節には、イチジクの木とオリーブの木、ブドウの木とイチジクの木の対比があらわれます。「彼は今や口から心へ転ずる用意をする。」[14] ここでも、兄弟たちという呼び掛けになっています。こうした樹木による果実の比喩も当時の人々の日常生活にはとても卑近なものだったでしょう。「イエスもその教えの中で自然の比喩を用い、良い心は良い実をもたらすと述べた。」[15] そこで、ヤコブも実に単純明快な論理でイチジクの木にはオリーブの実はならない、ブドウの木にはイチジクの実はならないと断言します。それは、読者が同意せざるを得ない仮定状況を提示しているわけです。これはヤコブの独特な論法かもしれません。絶対に、反論できないし、他の可能性はありえないわけで、同意するしかないのです。しかし、このように当然のことが、いとも容易に無視され、神の愛と赦しの教えが守られず、むしろ逆になっているのはおかしいでしょうと、ヤコブは問いかけています。古い罪の性質が死にきっていないのが原因です。「ゆえに、神との正しい関係にない心はどうしようもなく、正しくないことばを作り出すだけである。」[16] これは現代でも同じことです。ヤコブはさらに繰り返して、このように異質なものが共存することはありえないと断言します。「ベリアル(悪魔)の業は二重で、それらには誠実がない。」[17] ですから、甘い泉に象徴される神の愛と赦しと、苦い泉に象徴される不義の呪いとはけっして共に歩むことはできないものです。ただ、ヤコブの心の中に、そうした死の毒に汚染された者たちに対する慈悲や寛容という考えはあったのでしょうか。判断が難しいところです。文面では、彼らを見捨てているような印象も受けますが、それでもなお、ヤコブが彼らに「兄弟たち」と呼び掛けていることは、まだヤコブが彼らを見捨ててはおらす、義なる道、すなわち神の意思に従うように強く願っていると言えるのではないでしょうか。神の意思を第一にすることは、現代の教会の使命でもあります。「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザヤ65:2)つまり、苦い泉にも呪いにも、神の愛の御手が差し伸べられているのです。また、出エジプトの際に、反逆する民に悩んだモーセに告げられた神の言葉は、「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)、というものでした。ここに共通することは、どんな反逆や教えの無視があっても、主の愛と赦しの意志は決して変えられないということでしょう。確かにそうです。そうでなければ救われる人は出てきません。舌を制する人は一人もいないのです。数々の試練によって信仰を磨かれたモーセですが、彼も若いころには神の意思に従うことが困難だったと思います。神から与えられた信仰と霊性によって彼も成長したのです。「信仰は、悪いものを押さえ、良いものを育てる力です。暗い面に、必ず明るい面のあることを知って、それを明るい方に導くのです。」[18] 真冬の厳しさのようなヤコブの警告の裏に、温和な春のために福音の蕾がすでに準備されているといえます。「ヤコブはまた発言の訓練でのどのような成功も、神からの賜物であろうということを、読者に思い起させるのである。」[19] そのような視点からヤコブ書を読めるなら、これが神の愛の賜物を告げている福音の書であることがわかるでしょう。
[1] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、120頁
[2] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、115頁
[3] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、189頁
[4] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、146頁
[5] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、71頁
[6] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、147頁
[7] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、148頁
[8] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、119頁
[9] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、119頁
[10] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、120頁
[11] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、122頁
[12] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、149頁
[13] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、64頁
[14] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、98頁
[15] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、121頁
[16] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、151頁
[17] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、191頁
[18] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、170頁
[19] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、192頁