聖書研究

キリスト教の柔和さとは神の前における無価値の自覚

ヤコブの手紙3章13節 -18節 

13節でヤコブは読者に鋭く問いかけます。あなた方の中で知者であり経験を積んだ理解者は誰ですか、というのです。「それは、自分たちの生活方法を評価するのに自分自身を賢いと今なお考えるかもしれない人々に挑戦する。」[1] そして、ヤコブはそれらの人々に、立派な行動と柔和な知恵をもってあなたがたが模範を示しなさいというのです。それは、霊的な成長を遂げているかどうかの問いかけでもあります。「まことの知恵は柔和と結びついている。」[2] ヤコブは、理屈や理論ではなく、実際の行動によって、彼らの信仰内容を具体的に示すように求めたのです。「ヤコブは再び、行いの伴わない信仰は死んでいると述べている。」[3] 興味深いことには、当時のギリシア文化圏では、ヤコブが主張するような柔和さは特に珍重された徳目ではなかったということです。ギリシア人はむしろ強く雄々しくあることを善としたのです。であるとすると、柔和さとは、キリスト教文化に独特なものであったと考えてもいいでしょう。キリスト教的な柔和さとは単なる性格の優しさではありません。神の前における自分の無価値さを知っていることです。「クリスチャンは、自分の生き方を柔和なイエスに従わせる必要がある。」[4] こうした柔和さは霊的な成熟のしるしです。逆に、霊的な幼子は「善悪の区別がつかないため、サタンに騙されやすいので、教会の中に問題の種を蒔く恐れがあります。」[5] これはかなり厳しい指摘だと思います。それだけ、ヤコブは手紙の読者たちの教会における問題の深刻性を明らかにしていると思われます。だれが何を言ったかとかの問題ではなく、ヤコブは霊的という表現は用いなくても、内容としてはまさに霊的な成熟度を問うているのです。現代の教会でも、この問いに対して自信をもって答えられる人はどれだけいるでしょうか。

14節を見ましょう。しかし、もし読者が心の中に党派心(対抗心)や苦い(悪意ある)妬み(熱情)を持っているなら、真理に逆らって、勝ち誇って偽る(事実を曲げた証言をする)のはいけないというのです。(ここでは、ギリシア語の深い意味をつかむために他の訳語も列記しました。)そして、これは前述の柔和さとの対比です。パウロも、「争いとねたみを捨て」(ローマ13:13)ることの大切さを説いています。ここは理解の難しい部分です。ただ、詳しく原文を読むと、対抗心と勝ち誇ること、悪意ある熱情と事実を曲げた証言、とが対応していることがわかります。つまり、分かりやすく解釈すれば、相手を討ち負かそうとして、事実を曲げても自我を通そうとして証言し、真理から外れてしまう誤りがあるという事です。人の失敗を赦さない態度も、霊的な成長が未熟であるしるしです。実際に、ヤコブは教会でそのようなことがあると判断しているのです。つまり、単なる失礼な態度や言動だけではなく、キリスト教の真理という大原則に反して行動する者たちが教会にいることを問題にしているのです。ただ、この部分だけでは、ヤコブが何をもって「真理」としているかは判断できません。それにしても、こうした信仰姿勢に対してヤコブは厳しくノーと言っています。「自分たちが神の種族であるという自称はまるごと矛盾である。」[6]

15節で、ヤコブは前述の「真理」が何であるかを説明しているように思えます。そしてそれは、13節にある「知恵」と関係があります。ただし、ヤコブが強調するのは一般的なフィロソフィー(哲学;知恵への愛)のソフィア(知恵)ではなく、まさに上から来る知恵、つまり神から来る知恵なのです。そして、この天から下ってくる知恵(真理)ではない、人々の党派的な態度というものは、まさに、地上の、生まれながらの、悪魔的なものだとします。これは強烈な対比だと思います。天に対する地上の徳の愚かさはわかります。それに加えて、生まれながらの人々の態度は、肉的人間存在の主体(プシュケー)なのですから、聖霊の洗いを受けていないものです。さらに、それに加えて、ヤコブは悪魔的(デーモン)なものだと一蹴します。まことに辛辣な三段階の否定です。「ヤコブは、そのような知恵が神からのものではないことを証明できる。しかし、その代わりに、次第に厳しくなる順序による一連の三つの形容詞をもってそのような知恵が描かれる。」[7] 悪魔がパンの必要、つまり肉的な欠乏を説いてイエス様を誘惑しようとしたのと似ています。これは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(フィリピ3:18)、のことなのです。これこそ、キリスト教の仮面をかぶった地上の悪魔勢力(堕天使)の姿です。悪魔あるいはサタンの目的は人々の敵対であり差別や分断です。「そのような人は、自分を正当化するために、自分の中にある苦い思いの原因が他人にあると言います。」[8] 偽善者は常に、自分を被害者の立場に置きます。ヤコブはその偽りを暴露します。「わたしたちが他の人々に対して否定的になったり、あるいは裁くような批評を述べている自分に気づく時、わたしたちはその振る舞いの根源が何であるかを問うことができるかもしれない。」[9] イエス様も、神の真理を否定するこのような信仰者の仮面をかぶった人々に、迫害されました。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ8:47)

16節で、ヤコブはさらに続けます。ヤコブは先に指摘した党派心(対抗心)や苦い(悪意ある)妬み(熱情)を再度登場させ、そこには無秩序と暴動そして低級でとるに足らないことがらが存在するとします。「そのような人は教会内にも秩序の乱れを作りだします。」[10] これは、なんとも暗い話です。「それらの悪意ある人々は、自分たちの周りに、自分だけが正しいと感じてさえいればよいと思う人々を集めた可能性が高い。」[11]

ただ、そうした批判だけでヤコブの論述が終わるわけではありません。17節からは、先ほどヤコブが示した天からの豊かな知恵の内容が開示されます。「神の知恵が作り出す結果がどのようなものであるかを語る。」[12] 前に書かれた部分が非常に暗いだけに、ここでは光がビジュアルに輝いているような気がします。そして、上からの知恵は第一に聖なるものです。「この知恵は自分で獲得したものでなく、自分自身を輝かすものでないと言って、魂を静かで、祝福に満ちた感謝のうちにおきます。」[13] 聖なるものとは、派手派手しいものではなく、ひっそりとした静かなものなのでしょう。この世とは価値基準が違うわけです。それは、平安で、優しく、温順で、憐みがあり、えこひいきや偽りのない良い実、つまり実際の行動に結び付くものなのです。「それが目指すところは、むしろ妨害や攪乱を乗り越えた集会の確立であり、キリストのエクレシアの建立である。」[14] そしてこれらの言葉はすべてギリシア語のE音ではじまり、韻を踏んでいることがわかる。その中心テーマは神が与える平和ということです。

最後に、18節でヤコブはダメ押しをします。この実は義の実だと言うのです。義とは、この世の正義ではなく、神の御心に適うことです。ですから、神の御心に適った実を結びなさいという事です。ところが、この点でも、ヤコブは人々が誤って自己義認に向かわないように、注意深く警告しています。つまり、神の義の実を結ぶことは、人々の自発的な行為を出発点にするのではないのです。そうした行為は神の御心ではなく、人々の肉的な願いでしかありません。ヤコブはその点を明らかにして、義の実は、平和を作る人によって平和の裡に蒔かれていますと結ぶのです。やはり、神の平和が教会の柱となるべきなのです。「蒔くでは、御言葉を蒔くことが思い出されるべきである。」[15] まさに、イエス・キリストの平和の種が説教によって蒔かれ、人々の中に、義の実を結ぶのです。「ヤコブは、その聴衆に平和を作り出す人々になるように励ましを与えるのである。」[16] 実際に、旧約聖書では、義と平和は対になって述べられている場合が多く見られます。新約聖書も同じです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)ここで、ヤコブ書が平和の主、イエス・キリストの教えに立脚していることが明らかになるのです。「ヤコブは人々が互いに信じあうことを奨励しているが、このことは、平和が最優先の位置を占めている時にだけ、可能なのである。」[17]

[1] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、192頁

[2]  ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、100頁

[3] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、129頁

[4] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、129頁

[5] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、76頁

[6] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、124頁

[7] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、194頁

[8] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、77頁

[9] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、193頁

[10] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、78頁

[11] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、133頁

[12] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、156頁

[13] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、172頁

[14] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、67頁

[15] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、125頁

[16] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、195頁

[17] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、135頁

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