印西インターネット教会

猿を守る法律はあっても、農家を守る法律はない

兵庫県の丹波篠山に生息する野猿が、農作物を荒らして大暴れしています。申年はもう数年前に過ぎたのに、我が物顔になって農家を苦しめています。こうなると、人間の側からは害獣に過ぎません。しかし、絶滅危惧種とまではいかなくても、希少なニホンザルなので法律で保護されています。サルの暴挙を見ても、農家の人たちは手も足も出せません。また、他の害獣に比べて、サルは知能が高いから、対策には苦労しているようです。報道によれば、悪さをしている野猿軍団は30匹ぐらいのものです。軍団と言えるような数でもありません。大分県別府市のルーテル教会で働いていたころは、東京からの客人があると高崎山の猿を見にいったものです。あれもニホンザルらしい。日本では数か所でニホンザルの餌付けが行われているそうです。あれはあれで、可愛い。何しろ、動物園のような拘束環境でななく、自然の中で自由気ままに生きている姿がほほえましい。ただ、せっかく育てた黒豆等の農作物を荒らされている農家の人たちは、黙って見ているわけにはいかないでしょう。どうしたらいいのだろう。サルも助けたいし、人も助けたい。しかし、残念ながら、サルは人間に近いが人間ではない。人間の法律によってサルを処罰することはできない。だが、サルを守る法律は人間がすでにつくっています。そこで、「猿を守る法律はあっても、農家を守る法律なない」、という意見が出て来るわけです。では、法律は何のためにあるのだろうか。聖書を見ると、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ」(詩編19:8)、と書いてあります。人を守り生かすのが法律であるのは、間違いありません。しかし、この世の法律は完ぺきではないわけです。「わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています」(テトスへの第一の手紙1章6節)、とパウロも語っています。正しく用いられないことがあるからです。希少動物保護の法律があることは悪い事ではありません。しかし、保護を強要するだけで、その動物によって被害を受けた方々を保護するための保証が明記されていない法律は、「魂を生き返らせる」こともなく、人に喜びを与えることもありません。コロナ予防策で、飲食店の営業を強制的に制限しても、それによる損害を補償しないのと同じです。過去の公害問題などもそうですが、行政の側から優先して困っている人々を助けようとはしません。お役所仕事は、先例に従っているからです。「猿を守る法律はあっても、農家を守る法律はない」という「法治国家」では、住民が働きかけて国家に新しい法律を作らさせなければなりません。素人が考えただけでも解決策はいくらでもあります。1.過去に行ったように、サルを害獣指定して個体数を減らすこと。2.行政が資金援助して、電気柵等を設置すること。3.国の予算で猿の生息する山を購入し、保護区にすること。4.農家の作物被害を金銭的に保障し、サルと人間が共存できる環境を整備すること。ここまで書いてきて、行政のやり方に無性に腹立たしい思いがこみ上げてきます。日本だけではないのです。わたしがかつて住んだことのあるイスラエルでは、パレスチナ側の住民がユダヤ人地区に入らないように、刑務所の外壁のような塀を、数百キロにわたって設置しています。アメリカでは、メキシコや中南米からの不法入国を阻止するために、国境に頑丈な隔壁を数千キロにわたって設置すべきだという意見があります。わたしの言いたいのはこれです。行政が決定すれば、数百キロや数千キロにわたる、高圧電流をながした非人道的な隔壁を作ることすら容易なのですから、サルの住む地域を隔壁で囲み、サルも人間も安全に確保することができない訳はありません。できるけど、やらないだけです。「猿を守る法律はあっても、農家を守る法律なない」、というのは、単なる動物保護の問題ではなく、国民にフレンドリーでない国家の問題なのです。

モバイルバージョンを終了