今週の説教

人生の大転換を求める時に読む説教

「あなたを忘れない」      マタイ20:17-28

 

日本は地震、台風、豪雨、津波、火山噴火など、自然災害が多い国です。わたしがアメリカに住んでいたときには、自然災害といえば、竜巻くらいでした。日本の東北地方の津波の被害などは想像を絶するものでした。わたしの教えている大学の学生でも、それを経験した人もいます。つらい思い出です。それに加えて原発の問題も解決しないままに続いています。これは天災であると同時に人災でもあります。核エネルギーの問題についての専門家の言葉があります。「全ては、人間を、自分をどう考えるかにたどり着く」、というのです。その意味はこれです。人間が過ちを犯さない存在だと考えるのか、それとも人を傷つけたり失敗したりする存在だと考えるのか、そこで、原発は安全な設備なのか、いや危険なものなのかという結論がでてくるというのです。聖書を読んでいくと、人間がいかに弱く、間違いに満ち、神の赦しがなければ生きて行けない存在であることが理解できます。イエス様を裏切ってしまったユダの例もあります。信仰のヒーローのように考えられているアブラハムにも狡猾なところがありました。人間はみんな失敗します。ただ、わたしたちは、自分をどう考えているのでしょうか。隣人をどう考えているのでしょうか。だから、イエス様は主の祈りの中で、互いに赦し合い、欠点を補いながら生きていくように教えたのです。

自他の弱さに注目した方がいい。

さて、福音書の日課はイエス様が十字架の苦しみを予告した場面です。これは12弟子だけに話した言葉です。マタイ、マルコ、ルカ福音書はどれも、イエス様が三度にわたって受難予告をなさったと語っています。大切なことだから繰り返したのでしょう。ある牧師は、同じ話を何回もするそうです。その際に、ただ繰り返しません。「前にも言いましたが」、「くどいようですが」、「もう完全に覚えていると思いますが」、などと前置きをするそうです。それほど繰り返すと、人間の潜在意識に書き込まれていくのですね。イエス様にとって十字架と復活は、決して忘れてはいけない大切な点でした。だから繰り返したのです。わたしたちも、失敗とかイヤナ事を何度も繰り返して回想するなら、そのマイナス・イメージが潜在意識に書き込まれ、自己喪失するでしょう。ヤメタほうがいいです。そうではなく、イエス様が教えるように、自分にとって、十字架と復活は何なのかを考えてみましょう。

視点を変えると、神の世界が開ける。マイナスからプラスへの方向転換、これをキリスト教神学では「悔い改め」と定義する。

さて、イエスさまがこの受難の予告をしているとき、その横から一人の年配の女性がやってきました。12人だけに言ったはずなのに聴いていたのでしょうね。なかなか抜け目ない女性です。女性の方が、視野が広いと聞いたことがありました。聴覚もスゴイです。記憶力もスゴイです。わたしも、この点では妻の足元にもおよびません。さて、この女性はゼベダイの息子たちの母、と呼ばれていました。ゼベダイというのは、息子たちの父親であり、彼女の夫の名前です。このヤコブとヨハネの母も、実は、イエスさまに従って来ていた女性だったわけです。彼女が本物の信者かどうかはわかりませんが、息子たちを大切にしていたのは確かです。愛情があったのです。ですから、彼女は「どうか息子たちを高い位につけてください」と言いたかったわけです。他の弟子たちが、主イエスの語られた受難に心を奪われて恐れたり悲しんだりしている中で、彼女が、復活に目をとめ、息子たちをその栄光に共にあずかる者としたいと願ったことは、鋭い洞察だったと言えます。言い忘れていましたが、女性は直感もスルドイのです。確かに、復活とは当時の人たちの大きな希望でした。

その時に、イエス様は言われました。あなたがたのその願いはそれ自体間違ってはいない、しかし、あなたがたはその願いが何を意味しているのか、自分がどういうことを求めているのか、自分がだれであるかが分かっていない、ということです。

自分を知ることがすべての出発点です。

ある牧師は言っていますが、「聴衆の特徴は、語られた説教の中から自分の考えに適合する部分だけを真実と認識し、それにあわない箇所は全て自分の考えにあうように曲げて聞く」、と神学校で習ったそうです。それを聞いて、その時には聴衆に対する差別的意見だと思ったそうです。しかし、牧師になって何年もしてから、その言葉が紛れもない真実だと確信するに至ったそうです。それは人間に共通の問題点だと思います。ヤコブとヨハネは確かに復活の栄光という「自分の考えに適合する部分だけを真実と認識した」のです。

都合の良い解釈はこのへんでサヨナラして、真実を見つめよう。

わたしたちもこの点を注意したいものです。ただ、どんなに注意しても、聖霊の助けなしには、正しく認識することはできません。もし、いままでの不満の材料が、感謝の出来事としてみえてきたら、それは正しく聴いたしるしかもしれません。まさに聖霊の働きです。例えば、絵と詩の作家であり、深いキリスト教信仰を口にくわえた絵筆であらわした星野富広さんが、自分が寝たきりの状態であることを、野の花が上を向いて神を賛美していることにたとえて、感謝しています。普通なら、脊椎損傷で、全身まひの状態は、悲しみ以外の何物でもありません。けれども、神様の啓示を受けて、星野さんは自分の悲しみの姿が、実は神を礼拝する姿だったことを発見したのです。そして、心に喜びと感謝が湧き出したのです。これだけでも、現代の奇跡といえるでしょう。

さて、まだ十分に聖霊に導かれていない弟子たちは、自分がどんな存在なのかに無知でした。そこで、イエス様はご自身が、人から仕えられるためでなく、人に仕えるために来られたのであると教えました。また、多くの人の身代金を払うように、自分の命を献げるために来たのである、と語られました。これはまさに神の絶対愛です。愛とは感情だと誤解されやすいものです。おそらく、わたしたちの恋愛などの99パーセントは感情でしょう。それとは別に、絶対愛とは与える姿勢です。自分にとって最も大切なものを与えることです。興味深いことに、中国人の恋愛関係では、相手に多大な金銭要求をします。この世で、大切なものは金銭であり、金銭要求した時に、相手の愛が自己犠牲的なものであることを推測することができるからです。中国のように、長い歴史と、人間の裏切りを経験してきた民族は、感情や言葉上の美辞麗句とかは信じないわけです。

一方、神が絶対愛であるということは、神は徹底的に与えて下さる方であることです。わたしたちが呼吸している空気も、食物も、家族も、周囲のすべても、神が絶対愛によって与えて下さっている賜物(プレゼント)なのです。ただ、悲しいことに、人間の普通の状態では罪のために目が曇り、この素晴らしいギフトを喜ぶことすらなく、マイナスのイメージを何度も何度も潜在意識に叩き込んでしまいます。

解決策として、わたしたち人間は、自分の弱さを克服して、美しく、あるいは強くなろうとします。お隣の韓国では美容整形を受ける人が若い人の70%だそうです。(スゴイ!)これも、就職や結婚に有利だからです。あるいは自分の弱さを認めないで済むように、権力を持とうとする者もいます。自分の弱さ、辛さなど、自分に与えられている「杯」を飲まないで、それを避けて通りたいのです。そのときに、隣人と争いが生じやすいものです。イエス様が語った「杯を飲む」という表現は、旧約聖書の言い方で、裁きとか罰を意味します。他人を批判して、他人が罰を受けるのを望むのではなく、自分自身が他人の受けるべき罰を受けるのが杯を飲むことです。イエス様はすすんで他者のために罰を受ける方でした。絶対愛の人でした。俗世界でも、親が愛する子供の罪をかぶることもあるのではないでしょうか。

愛の深さをはかるモノサシは、相手のために自分の命を犠牲に出来るかどうかにある。

ですから、イエス様は、ご自分の身に、神の裁きとか罰をあえて、引き受けられたのです。あとで、ペトロが三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのは、彼の心が弱かった、というようなことではなくて、聖霊の助けなしに、このような絶望と、苦しみの杯を飲み干せる者は一人もいない、というしるしなのです。しかし、誰でも聖霊によって絶対愛の神の本質を悟り、杯を飲み、人を裁くのを辞めたなら、人と人との関係が癒され、平和が作り出されます。絶対愛は、自分を無条件に受容し、他者も無条件に受容するからです。絶対愛=絶対受容=人生の絶対肯定です。イエスさまが十字架にかかられるという「杯」もまた、人に仕えること、人に命を与えることになったのだと、今日の聖書は伝えています。

わたしたちの苦しみも、役に立っている可能性がある。

十字架にかかって死んだ尊い方を、キリスト教では救い主だと告白しています。それは、わたしたちもこの方の苦しみに自分を重ね合わせる時があるからです。星野富弘さんもそうでした。わたしたちの人生の末路も同じです。そのとき、それは単なる苦しみではなくなります。復活の光が輝くのです。

復活は単なる生き死にのことではない。

それは、人生の大転換点です。死んでいた者(目的を失っていた者)に、自分は仕えられるためではなく、仕えるために自分の人生があるという自覚が生まれるからです。それはマザーテレサにもありました。発明王と呼ばれたトーマス・エジソンにもありました。そして、わたしたちにもあるはずです。その原因はただ一つです。神様が、あなたを決して忘れないからです。そして、必ず新しい命の道を与えて下さるのです。

旧約聖書にでてくるアブラハムに、ある時、神は語りかけました。それは故郷を棄てなさいという勧めでした。未知の土地に行くことでした。まさに、大切なものを犠牲にすることです。アブラハムは神様を愛し、犠牲を犠牲とも思いませんでした。ローマ書4:3にある「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」、とはこのことです。義とは、神様の絶対愛に生きることです。そして、マイナスの思いを投げ捨て、神様が必ず祝福して下さることを信じることです。これは人間にはできません。ドーシテモ、マイナス面しか見えないのです。祈りです。「神様、わたしには信じる力がありません。どうか、人生の暗黒の海に沈みそうなときにも、神の絶対愛を信じさせてください」、と祈るだけでいいのです。わたしは、学生の頃に、渋谷の冨坂の陸橋の所で祈って以来、ずっとプラス思考です。

批判的な古い自己を棄てた後に、復活があります。これは、あなたを忘れないという神のみ言葉のみを信じていく道です。イエス様の十字架の道です。わたしたちも思い煩いや、恐れを棄てて主に従いたいものです。仕えるものとして新生させていただきましょう。人間であるわたしたちは、これからも失敗の連続である罪深い存在です。しかし、わたしたちは決して忘れられていません。イエス様が、十字架で尊い命を捧げて下さって、わたしたちに神の絶対愛を確信させてくださったのです。神様はわたしたちを決して忘れません。わたしたちが無力である時こそ、わたしたちは神様の絶対愛に生かされている大切な存在だと発見するチャンスなのです!!

 

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