「あの世では金持貧乏の大逆転」 ルカ16:19-31
聖書に書いてある、イエス様の信念とは、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」ではないでしょうか。イエス様はいつも、人の考えではなく神の視点から見たら、物事はどうみえるか、ということを教えました。
この聖書の箇所もイエス様のたとえだと思います。これはルカの福音書独特の話であって他の福音書には平行記事はありません。専門的にはQ資料からの引用だと考えられています。(あまり意味ないですね)これもルカの福音書の特徴ですが、何度も金持ちと貧乏人の対比がでてきます。(これは大切です)
イエス様の時代にも金持ちは遊び暮らすことができました。なにしろ、テルマエ・ロマエの時代ですヨ‼ この家の門の前にいた乞食のラザロは残飯をもらって暮らしていたのです。原文で、ラザロはこの金持ちの門のところに置かれていた(横たわりではない)と、受動態で書かれています。彼は自分の足で金持ちの家に行って物乞いしたのではなく、周りの人たちが彼をそこに運んでいって放置したと暗示されていますね。日本も、世界の中でみたら、まだ金持ち国であり、年間の食品廃棄物が1700万トン、一日に4万6千トンですから、長さ300メートルほどの大型の輸送船一隻分の食品が毎日捨てられていることになります。以前、東京の帝国ホテルでバイトをした人が、残り物がおいしくて豪華だと言っていました。(自分も食べてみたかった)いいアルバイトですね。ただ、世界では一日に4万人が餓死しているそうです。日本の廃棄食品の千分の一でも与えられたらその人達は死ななくても良いでしょう。イエス様の周囲にも餓死して死ぬ人がいました。ただイエス様はこれを食料の問題としてだけ考えてはいません。
日本では残った食料は廃棄されている。
ラザロも死んで、金持ちも死にました。ラザロの名前は「神はわが助け」という意味です。エレアザルという言葉を簡単にしたものです。この名前も譬え話の伏線になっているようですね。ストーリーテラーの心境がつたわってくるようです。この世では不公平はあっても、神はそのことに心を痛めておられるわけです。例えば、わたしたちが、コロナ破産の苦しみを受けたとしたら、神は非常に心を痛めているのは確かです。公共料金が払えない苦しみ。物件が差し押さえられる痛み。子供にクリスマスプレゼントさえ買えない心の嘆き。だが、不思議なことに、何も良い事をしなかったラザロは天使に助けられて天国に行きました。注意したいのは、ここで門前に置かれていること、天使に運ばれることなど、自分ではどうすることもできない無力で受動的な人間が、いやこういう人間こそが神の絶対愛に守られているのです。不思議なことです。一方で、金持ちの方は地獄ですから、ここで金持貧乏の大逆転が起こっています。ストーリーテラーの展開するクライマックスです。金持ちの落ちこんだ地獄は火の池地獄のような所でした。仏教でも、こういう地獄絵図はあります。地獄だから苦しみだけがあり、熱くても死なないからさらに苦しいわけです。喉の渇きも尋常ではありません。ここで、ギリシア語の原語を見ると、なんと(!)金持ちはアブラハムに、エレーソンと叫んでいます。これはキリエ・エレイソン(主よ憐れんでください)と礼拝で唱える言葉です。弱い者の発する言葉です。強い者が逆転して弱いものになったことが、人生のクライマックスです。
弱い者が強なり、強いものが弱くなる、神の世界の絶対的公平世界。
ただ、譬え話の金持ちは、ここに至っても、弱い人の気持ち、受動態の人の気持ちにはなりえません。本当は自分が神の裁きを受けているのに、ただ「もだえ苦しんでいます」とだけしか言えません。自分だけでなく、他者がいることが見えません。神様がいらっしゃるということも見えません。強かった金持ちも、人生の最後に彼が求めたのは、小さな小さな事でした。大きなものに必要だったのは、小さな小さなことでした。なんとそれは、指先につけた一滴の水でした。水なんか捨てるほどにあったのに、最後の最後にはこれが最高の望みとなったのです。逆に考えれば、人間は小さな恵みだけでも本当は十分に幸福になれるははずです。しかし、アブラハムは、その小さな小さな要望すらを断りました。
ダメはダメなのが神様の世界。
なんでダメだったのか。天国のアブラハムは言いました。あなたは生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは悪いものをもらっていた。死後にその関係は逆転する。神様は公平なのです。よく西洋の法曹界のシンボルに天秤の絵が描かれています。あれですね。バランスだと思います。苦しんだことは無駄ではなかった。その後に、ちゃんとバランスをとって喜びが与えられるのです。神様はコウヘイ~!ここで注意すべきは、この点です。良い生活は自然に起こっているわけではないのです。コロナ前の普通の生活も、あれは今考えると自然にな事ではなかったのです。なぜなら、この部分の聖書の言語を詳しく見ると、原文では「受け取った」と書かれています。そうなんですよ! わたしたちも「受け取っている」のです。普通の生活が、自然にあるわけではなく、神様から受け取っているよと、イエス様は教えているのです。なるほど。これがストーリーテラーの結論ですか。
つまり、神が与え主で、わたしたちが人生の受け取り人です。
聖書には、わたしたちは、神の同意がなければ、自分の人生をどうすることもできないと書いてあります。ついに、この神の公平バランスを変えることができないと悟った金持ちは、自分の5人の兄弟たちを助けてくださいと願います。初めて他者の事を心にかけたのです。しかし、アブラハムの答えは聖書でした。つまりイエス様の答えも聖書なのです。ここに書いてある、「モーセと預言者」、というのは、モーセ五書と預言書の事です。これに聞けば、何をなすべきかが分かるというのです。聖書には、神がわたしたちがに対して、どのような生き方をもとめているかが書かれています。察しのいい人は答えが分かるでしょう。もう前の部分に出てきています。「自分ではどうすることもできない無力で受動的な人間」(つまり罪人)として自分を見ることです。神は弱さを知っている人間にはメチャ優しいです。これは確かです。パウロなんかも、若いころ学者で活動家で自信に満ちていた時は、神に見放されていました。そのご、目も見えなくなって人に助けられるようになって、その時、神の絶対愛を知ったのです。
コロナでも、破産でも、難病でも、不遇でも、自己が徹底して弱くなったときこそ絶対愛を知るチャンスなのだ。
神様は、強い人には恵みの世界をあらわさないからです。(そんなに自信があるなら自分で勝手にセイ、と言われるのでしょう)ここでイエス様の譬えは終わります。消費税があがって、コロナで不況になっても、日本はまだ豊かな国ですから、わたしたちは、ここで、自分たちを金持ちの立場においてみるといいですね。死んだら、以前はバイオハザードの狂人だったような人々が天国で左うちわでリラックスしているのです。そしたら、なんとなく、釈然としない気持ちになるでしょう。自分たちは、殺人や強盗をしたわけでもない、それなのに何故これほどまでに裁きを受けるのかという疑問です。
イエス様はその問題点をこう指摘しています。聖書に聞かないことがすべての罪の根源である。貧富の差の問題ではない。箴言に28:9にも書いてあります。「教えに耳を背けて聞こうとしないものは、その祈りをも忌むべきものとみなされる。」聖書に聞かないなら、つまり神の言葉に耳を傾けないなら地獄に値する重い罪であると、イエス様は教えています。これはたとえ話ですから、脅かしではなく、そうなってはいけないよと諭してくれているわけです。(ホッ)
神の言葉に聞かないことは、神を知らないわけですから、自分が生かされて、多くを与えられていることを知らないのです。普通の生活は普通でしかありません。まさか、神が恵んで与えてくれたとも思わない。だから、隣人が苦しんでいることにも無関心。自分のことしか関心がない。愛がないのです。聖書には神は愛であると書いてありますから、愛がないことは神を知らないことです。キリスト教だけでなく、回教、仏教、儒教、ヒンズー教、それが何でも愛がある時に、愛の神は実在します。この愛を知ると、日常の小さなことすら嬉しくなります。神のギフトですよ。喘息なく空気がすえる喜び。指先の一滴の水ではなく、冷たいビールだって飲める喜び。朝目覚めたら、体に何の痛みもない喜び。財布に千円入っていて、インスタントラーメンをたくさん買えるよろこび。自分を大切にしてくれる家族がいる喜び。外国のようではなく、夜中に暗い道を歩いても強盗に襲われる危険のない喜び。北風が吹きすさんでもコートを着て寒さを防げる喜び。外国のベン・アンダーウッドのように、全盲でありながら、白い杖も使わず、自分の発する音の反響を頼りに行動できた人がいたことを知る喜び。温暖化はしていても、氷河期にはなっていない喜び。まだまだ、たくさんあるでしょう。この感謝こそ、神を知る道なのです。
ルーテル教会のアウグスブルク信仰告白という者があります。そこの第一条は神についてです。第二条は原罪(愛に背負向けた生き方、神を無視した生き方)についてです。それほど愛を知らない罪の問題が大きいという事です。そこにこう書いてあります。「すべての人間は罪を持って生まれてくる。すなわち、神を畏れず、神に信頼せず、肉の欲を持っている。そしてこの生来の疾患ないし悪は、本当に罪である。」旧約聖書日課のアモス書に「災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは」と書いてありました。金持ちの姿は人間の姿だったわけです。しかし、今日わたしたちが、このインターネットメッセージを通して、感謝項目を数える事が出来たなら、コロナ破産でも、なお感謝が残されているのを知ったら、(主よ憐れんでください)と呼びかけることができたら、貧乏金持ちの世界、苦しみ喜びの世界は逆転するでしょう。神の恵みです。
そして、聖書を通して、罪の重さも分かるのです。大型の輸送船一隻分の食品が毎日捨てられている日本。一方、外国では一日に4万人が餓死しています。わたしたち金持ち国の人間が、このたとえ話の金持ちと同じ無関心の罪にあることがわかります。自分の事だけに心が占められているからです。貧困や差別の苦しみに心を痛めない態度があるからです。愛のない生活は裁きの対象になってしまいます。早いところ、方向転換(神学用語では悔い改め)できるように神に祈りましょう。神はきっと良いバランスを回復して下さるはずです。イエス様の場合には、十字架の犠牲の死の後に復活がありました。わたしたちの人生の小さな苦しみの死に似た体験の後にも、復活があるのです。パウロも、第一テモテ1:15で「キリストが罪人を救うために世に来られた」と宣言しています。本当の救いは、わたしたちがどうこうではなく、罪人であるわたしたちのために、イエス・キリストが身代わりになって裁きを受けて下さったことにあります。苦しむラザロの姿の中にイエス様がいると発見したのはマザー・テレサでした。彼女は貧しく死んでいる人を助けたのではなく、その人の中におられる救い主にお仕えしたのだと言っています。全ての苦しみの中には神の愛が隠されています。マザー・テレサも貧しい人を救ったのではなく、彼らに救われたのだと考えました。ここにも人生の逆転があります。ある思想家が言いました、「大切なのは正義ではなく愛である。」愛とはキリストであり、すべての苦しみの中に隠された、春をまつ救いの種です。