クリスマスでも悲しくてしょうがない時に読む説教
「死ぬことを恐れる魂は、生きることを決して学ぼうとしない」 マタイ21:1-11
クリスマス前の聖書の箇所は、イースター前の受難節の聖書日課と同じです。礼拝式に使う典礼色も紫です。クリスマスを祝う時に、何故、受難節なのでしょうか。その一つの答えは、最初の教会にはクリスマスがなかったからです。クリスマスの起源を知っていますか。それは、ヨーロッパの冬至の光の祭典を、救い主の誕生日の祝いとしてキリスト教が取り入れたものだったからです。3世紀から4世紀頃までは、復活祭だけが教会の祝祭でした。でも、復活祭と、後からできた降誕祭に深い関係をつくったわけです。それは昔の人の信仰をあらわしていると思います。救い主イエス・キリストの誕生は嬉しいことですが、イエス様は人類を罪から救う犠牲となるために生まれたということを強調したわけです。そこで、受難節の時のエルサレム入城の箇所を待降節第一主日に読むようになったのです。つまり、イエス様が誕生されたのは、自分の為に生きるのではなく、神の救いのために、茨の道を歩むためだったという事です。
旧約聖書のイザヤ書には、救い主が生まれる意味が書かれています。預言者イザヤは、神の救いがエルサレムから始まると述べています。イエス様はエルサレムで歓迎され、エルサレムで人々から憎まれて十字架にかけられました。そして、イザヤによれば、この十字架の働きによって、人々は戦いの道具である剣や槍を作り直して平和の道具である鋤や鎌にし、「もはや戦うことを学ばない」と預言されています。
同じイザヤ書に、救い主の事がもっと詳しく書かれた個所があります。イザヤ書53章です。救い主は、「軽蔑され、人々に見捨てられた」とそこに書いてあります。また、救い主の受けた苦しみによって、わたしたちに平和が与えられ、わたしたちは癒された、とも書いてあります。癒しは大きな喜びです。病気やけがの時に思います。ただその癒しは一時的なものです。また病気にはなりますし、怪我もします。最後には死んでしまうわけです。もっと根本的な癒しが必要なのです。この大きな癒しが、永遠の命を受けるという救いです。クリスマスは、わたしたちの罪と運命的な死の苦しみを取り除き、永遠の命を与えるためにイエス様がお生まれになり、犠牲となったことを覚える時です。喜びでもあり、悲しみでもあります。
このイザヤの預言を覚えて、福音書の日課を見るとよく理解できます。まず、何故、イエス様が馬ではなく、子ロバに乗ってエルサレムに入城したかです。馬というのは、当時は最新兵器でもありました。今なら、宇宙戦争用のレーザー砲でしょうか。馬は走るのがうまいし、皮はレザーに加工できますね(笑)。旧約聖書の時代には古代エジプトが馬を使った戦車部隊をもっていましたし、ローマ軍も馬を使っていた。馬こそ、権威ある者の象徴であり、将軍や王様の象徴でした。だから、イエス様は、この馬を避けて、謙虚なロバ、これは農作業や運搬に使う平和の象徴です。これに乗った訳です。それは、「見よ、王が来る。高ぶることなく、子ロバに乗ってくる。」(ゼカリア書9:9)預言の実現なのです。
イエス様がロバに乗って下って行ったオリーブ山にはオリーブの木がおおかったのでしょう。オリーブの木は何千年も過酷な環境で生き続けますが、それは古い幹を新しい枝が包み込んで成長するからです。あたかも罪ある身を包んでくれる神の愛を示すかのようです。山のふもとにはオリーブの木が茂ったゲッセマネの園があります。でも山のうえからエルサレムに下って行って城門から入るとしても、それは2キロくらいの距離でしかありません。ロバに乗る必要もない距離です。しかし、イエス様は、血筋はダビデ王の家系ですが聖書の教えに従って、ロバに乗り、弱く小さな犠牲者として十字架につけられる覚悟をされたのです。王様である者が、乞食のような姿になったのです。この悲しい出来事も神の御計画です。わたしたちの遭遇する困難も、神様の御心とは無関係ではありません。イエス様は、自分がつらいとかは問題にせず、聖書に書かれている神の預言を第一にされました。これを童話にしたのが、オスカーワイルドの「幸福な王子様」です。皆さんも読んだことがあるかも知れません。町の人々の悲惨な状態を憐れんだ王子様の銅像は、ツバメに命じて、自分の体に着いた金銀宝石を貧しい人に運ばせたのです。その最後に、金ぴかだった王子様はボロボロの姿になり、ツバメは温かい国へ行きそびれて死にました。最後に、神様が天使に「この町で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と言った時に、天使がゴミ箱から拾ってきたのは、王子の鉛のハートと死んだツバメでした。
イエス様は自分の願いの実現ではなく、全人類に絶対愛をしめす神のご計画のために生まれたのです。クリスマスには、救いの預言の実現という意味があります。イエス様の誕生の時は寒い夜でした。イスラエルというとエジプトにも近いですし、熱帯や砂漠のイメージが強いわけです。しかし、エルサレムやその近くのイエスさまのお生まれになったベツレヘムは海抜千メートルくらいの高地にあるわけです。ですから、冬は寒いし雪も降るわけです。わたし自身もそこに住んだことがあるのでよくわかります。マリアさん人口登録のためにナザレから数百キロ離れたベツレヘムまで遠い旅でした。辛く苦しい旅だったことでしょう。でも、お母さんのマリアに天使も同じことを言っています。「神にできないことは何一つない。」わたしたちも、困難な際にそのように考えられたら幸せです。
さて、小さな子ロバに乗った犠牲者となるイエス様は、悲しむ者や苦しむ者を慰めた方です。また、すべての問題の根源が罪にあると知らないで、自分の不運を嘆いたり非難したり、他人を非難している人々を決して責めませんでした。神の絶対愛の存在を知っていたからです。だから、わたしがあなたの苦しみと、あなたの罪の罰を代わりに負うから、安心しなさい、心配しないでいい、悩まなくていいと優しく呼びかけてくださったのです。イエス様は、人間が罪によって愛である神から離れ、嘆きの道を歩む運命になっていることをよく知っていました。しかし、病人が自分で手術して自分で治すことができないように、外からの救い主が必要です。あなたの努力でも、あなたの信仰でもなく、わたしのしめす神の絶対愛によって、あなたは癒され、あなたの困難には克服されると告げてくださるのです。
イエス様は、優しい親のように、純粋な愛を持つ恋人のように、永遠の命の御国まで運ぶから心配はいらないと言ってくださるのです。エルサレム入城の際には、人々はダビデの子にホサナと叫びました。ホサナとは、ヘブライ語でホシ、アナ(救ってください)の意味です。ダビデの家系から救い主が生まれるというのも聖書の預言であり、人々はそれを信じていたのです。ただ、ダビデの子孫から人々の罪の罰を身代わりしてくれる人が登場するとは理解できなかったのです。
外国の曲で「ローズ」という曲があります。随分前にベッド・ミラーという人が歌ってヒットした映画の主題曲です。その歌詞で、こうあります。「目覚めることを恐れる夢は決してチャレンジすることができない。奪われることを恐れる者は、決して与えることができない。死ぬことを恐れる魂は、生きることを決して学ぼうとしない。」自分には、ローズが情熱の赤ではなく高貴な犠牲の紫に感じられます。クリスマス・ローズも紫です。また、この歌詞の内容は、600年前のアシジの聖フランシスコの平和の祈りに共通します。そこにはこうあります。「慰められるより慰め、愛されるよりも愛することを求めさせてください。何故なら、人は与えることで与えられ、赦すことで赦されるからです。」ここで語られているのは、失うことと得ることとは、無関係ではないことです。コロナだけでなく、自然災害や、事故、さまざまな失敗によって、愛する者を失い、自分自身を失い、深く傷つくことがあるでしょう。自分では、あとに残された傷跡を癒し、空虚さを埋めることはできません。しかし、見方を変えると、それは十字架と復活の奇跡と重なる出来事です。死と命は表裏一体です。悲しみと喜びも一体です。最も悲しんだ者が、最も深く喜びの意味を理解するでしょう。わたしたちが人生のどん底に転落した時も。神の絶対愛は変わりません。その時に、必要なのは信仰によってイエス様を心の中にお迎えすることです。キリストの誕生です。この小さなクリスマスが心の中でおこるとき、救われます。救われたときには、どんなに環境が悪化しても、感謝して日々を得ることができるでしょう。死から命へと魂が復活しているからです。絶望ではなく、神の絶対愛における希望を与えられているからです。この転換、それが罪の贖いという事です。それが、クリスマスのメイン・テーマです。