閑話休題

組織によって宗教の純粋性は失われる

「ダヴィンチコード」の続編とも呼ばれる「天使と悪魔」という映画があります。ヴァチカンを舞台とした象徴学者による謎解きのストーリーです。駄作かとおもいきや、主演のトム・ハンクスも頑張っていて、意外と面白い映画でした。これは科学と宗教の相克を描いたものとして評論されています。ただ、実際に見てみると、宗教というものが、教理の純粋性を失い、組織の維持や、儀式の巧妙さに重点を置いているのがわかります。イエス・キリストが十字架にかけられるほど憎しみをうけたのは、当時のユダヤ教という組織的宗教のありかたに疑問を投げかけたからでしょう。それは、律法の有効性についての疑問、神殿の在り方への疑問、女性や、異民族に対する差別的偏見への疑問などです。宗教を維持するには、どうしても組織が必要になってきますが、組織ができると、宗教本来の目的であるはずの「人を生かす」ことが忘れられ、組織を維持することが重要になってきます。そして、組織の維持のために、戒律が施行されるのです。現代でも、あるカルト集団に属する親戚の者が、結婚式には出てはいけないないという戒律に縛られているという事実を知って驚きました。葬式も、結婚式もダメなのです。自分たちのカルト集団の儀式は認めるが、その他の儀式は認めないという事です。勿論、こうした戒律を破れば、天罰が下ると脅かして洗脳していくわけです。カルトだけでなく、仏教や回教、そしてキリスト教も、組織優先になりがちな傾向があると思います。内村鑑三は、そうした教会組織に対して反対をとなえ、「無教会主義」に立ったわけです。わたしも若いころは、こうした考えが、伝統的な「教会論」の教理に合致しないなと思ったことでした。しかし、組織の弊害と宗教の純粋性を考えると、内村鑑三の言いかかったことも理解できるような気がします。聖書には、「真理は自由を得させる」と書かれていますが、この世の宗教の多くは、その反対です。人を不自由にしています。それは、神の絶対愛を信じるのではなく、後世の人間が作った様々な戒律を守ることが宗教だと信じているからです。マルクスなどは、このように人を不自由にする宗教のことを「民衆のアヘン」とまで呼んだのです。わたしも、若いころは共産主義者でしたから、そのように思っていましたが、イエス・キリストが布教した神は、アヘンではありませんでした。生命の源でした。ただ、宗教組織だけでなく、共産主義組織さえも、同じように、「人を生かす」生かすのではなく、組織維持が最優先されるように思います。こうした集団が持つ弊害を研究したのが、神学者のラインホールド・二ーバーでした。これから神学を学ぶ人には、組織の悪に影響されない「教会論」を研究して欲しいですね。それが、内村鑑三や二ーバーの遺志を継ぐことではないでしょうか。

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