印西インターネット教会

牧師と坊主のクリスマス

「聖樹灯りてクリスマス」      ルカ1:46-55

クリスマスには、クリスマスの主人公について学びたいものです。聖書にはヨセフが自分の考えではなく神の御心を第一にしたことが書いてあります。日課の部分は、マリアの賛歌と呼ばれていますが、最初の「わたしの魂は主をあがめ」というラテン語からとって、別名、「マグニフィカート」とも呼ばれてることがあります。あがめるとは、日本語の褒めるとちがってギリシア語でメガリュオー、大きくするという意味です。神の恵みを、大きく感じとること、そこにグッドニュースがあります。困難な人生でしたが、マリアは神の恵みを大きく感じて幸せな人でした。だから賛歌なのです。わたしたちも幸せな時には、鼻歌を歌ったり、思わずステップを踏んだりすると思います。

嬉しいことは行動にあらわれる。

しかし、人間には罪がありますから、聖霊の働きなしには、神の恵みはあるのですが、小さく見えたり、全く見えなかったりします。多くの場合は、神様が送ってくださる恵みを過小評価して悲しみと心配にとらわれているのではないでしょうか。つまり、目に見えない神の愛が受肉していないというか、具体化して見えてこない場合があるわけです。

さて、クリスマスの中心は、サンタクロースでもクリスマス・ツリーでもないし、クリスマス・ケーキでもありません。皆さんは何だと思いますか。それは、見えない神の聖霊が見える御子イエス・キリストになったことです。この事を受肉と言います。英語ではインカーネーション。これはインが中の意味で、カーネーションは花の名前にもなっていますが、肌色とか肉の色という意味です。見えない物が見える形をとったということが受肉です。クリスマスは、キリストの誕生ですが、これこそはわたしたちの罪の贖いのために神の見えない愛が、見える愛になった奇跡です。

しかし、マリアが賛美したように、神の憐れみが限りないと、わたしたちも言えるでしょうか。とくに、日本人は「他人から憐れんでもらいたくない」と見栄っ張りな国民性をもっていると言われています。でも、教会の伝統的な礼拝ではキリエがあります。これは、キリエ・エレイソンであり、主よ憐み給えの意味です。マリアはどうだったでしょうか。マリアの時代は約400年間預言者が現れていない、霊的な暗黒時代でした。そのような中にあって、聖霊によってマリア自身から救い主が生まれ出るという天使のみ告げを聞いて、マリアは喜びました。神の偉大さに注目すればするほど自分が小さくなります。ですから、小さくなったマリアは、神の憐れみが限りないと言えることができたのです。これは教会の姿でもあります。小さいものが大きな神の愛を感じたのです。

小さくなったマリアといえば、マリアが自分のことを語った、はしためとは、女奴隷の意味でまさに小さな取るに足らない存在です。マリアはみ言葉のみを信じてとにかく奴隷のように従ったのです。受肉とは、見えないものが見えることになるわけですが、それはまさにイエス様の教えのように、後の者、卑しい者が、先となることです。世界で最も先に救われたのも、イエス様の隣で十字架につけられ見捨てられた者、犯罪者バラバでした。

マリアの賛歌こそ、身分の低いもの、はしため、に対する巨大な神の恵みを感じる賛歌です。マリアから生まれた、イエス様はさらに低い姿勢へと、十字架へと向かって行かれたのです。低いものが高められる、高いものが低くされる、それも受肉の意味です。神さま御自身が、崇高な立場を捨てて、屈辱の十字架を負ってくださったという秘儀です。秘儀はミステリオンといいます。奥義です。高いものが低くなってくださったわけです。クリスマスは神の御子が馬小屋に生まれたこともまさに受肉の奇跡ではないでしょうか。王様の御殿にふさわしいものが、馬小屋の飼い葉おけに入れられたという事です。それは、罪の為に神の絶対愛を感じ取れない者のさらに下に立ち、身代わりになって苦しんでくださるためです。

今回の「マリアの賛歌」は、旧約聖書の日課のサムエル記上2章の「ハンナの祈り」と多くの共通点があることが指摘されています。しかし、「マリアの賛歌」には「救い」と対比になるべき「裁き」がありません。「救い」オンリーの世界、無条件の愛の世界です。恵みのみです。受肉とは裁きのない、恵みの世界です。ですから、マリアは、あくまで「憐れみ」を歌っていくのです。マリアが自分の弱さを徹底的に感じていたからでしょう。

わたしたちは弱い時に強められる。

聖書の教えは、自分の力で行おうとすると、大変難しいことが分かります。そして挫折して終わってしまいます。教会にも来なくなる人がいます。しかし、マリアは自分の力ではなく、神様の救いの輝きを、理解しました。わたしたちもそれを知るとき、弱いものでも生きて行けるのです。罪深くても赦しを感じます。ルターは奴隷的意志論でこの点に触れて言いました。「神は謙遜なもの、すなわち自己に絶望するものに、たしかに恵みを約束している。」わたしたちがまだ悩んでいるとしたら、それは自分に絶望していないためでしょう。神の偉大な受肉の光を感じていないためでしょう。

絶望は悪いことではない。

高いところ、立派なところに受肉はおこりません。人生の飼い葉おけ、人生の思いもかけない世界に受肉の奇跡は起こります。

東京の有名な繁華街である歌舞伎町の近くの新大久保にあるルーテル教会で牧師をしてきた関野先生がクリスマス・イブの経験を書いています。「キャンドルサービスで、ローソクが光った。するとそのローソクの光に照らされて怪しげな光が輝いた。それは礼拝に来ていた友達の坊さんの剃り上げた坊主頭だった。彼はあこがれのクリスマス・イブ礼拝に来ることができたのです。礼拝後に彼は、関野牧師に尋ねた。あの礼拝で信者がいただいているパンとブドウ酒を自分もいただきたい。しかし、関野牧師はいった、教義上それは洗礼を受けたものだけに限られているので今は出来ない。しかし、あなたの人生の最後の日に僕を呼んでくれ。パンとブドウ酒をあげよう。お坊さんは嬉しそうに言った。じゃあ、その時に僕もあなたに、戒名をあげよう。関野牧師は、心の中で思った。自分は戒名はいらない。ところが、その時、心の中でピカッとクリスマスの光がひかった。そうだ、イエス様が生まれた時に、最初のプレゼントを持ってきたのは、異邦人の博士たちであり、黄金、没薬、乳膏だった。そして彼らは、救いというプレゼントを受け取った。そこに異邦人と神の側とのプレゼント交換があった。ピカッ、これが本当のクリスマスだ。牧師と坊さんの形のない約束のプレゼント交換を通して、共に一つの光に導かれたのだ。」この牧師が感じたように、神の恵みを、大きく感じとるところに受肉があります。

思いもかけないところに、思いもかけないプレゼントを神様は用意して下さっています。それが最初は馬小屋の飼い葉おけの中の聖なる赤ちゃんイエス様、そして異邦人の博士たちの贈り物、そして、わたしたちの人生を絶対愛の愛で包み、明るくしてくれる神の働きです。そのとき、わたしたちも、クリスマスに、マリアと一緒に、「人はわたしを幸いな人というでしょう」と宣言することができるでしょう。なぜなら受肉の奇跡を経験したからです。今までは見えなかった神の働きが見える奇跡を体験したからです。聖樹灯りてクリスマス。教会は、この神の絶対愛の光を伝えていくキリストの体です。先のものがあとになり、後の者が先になる奇跡の場所です。

 

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