木星と土星が大接近した特別なクリスマス
「喜びの星」 マタイ2:1-12
今年は、約400年に一回という木星と土星の大接近の年です。これは今月末まで続きますから、まだ夜空には不思議な天体ショーが展開されています。コロナのおかげで、口のマスクだけではなく眼にもマスクがかかっていて、神の世界でもあるこの宇宙の壮大さを見忘れてはいないでしょうか。今日はクリスマス日ですが、クリスマスのお祝いの季節は来年の1月6日の顕現日まで続きます。だから、12夜といわれるのです。顕現日は公現祭とも呼ばれます。ですから、西洋では12月25日から1月6日までの12日間を、救い主の誕生の時期として祝って来たのです。顕現とは顕微鏡の顕に、現れると書きますが、そのもとの言葉はギリシア語でエピファネイアであり、「神が介入して働いていることを示すために、目に見える形で空から現れる」という意味です。もしかしたら、木星と土星にも神の介入があるのかもしれません。前回の大接近は、1623年のことでした。この1623年には大事件は発生していませんが、フランスの哲学者であり科学者であったパスカルが誕生しています。このパスカルが真空を発見しなければ、わたしたちはまだ宇宙の存在を知らなかったかもしれません。パスカルはその著作「パンセ」を読めばわかりますが、敬虔なクリスチャンでした。真空の存在だけでなく、創造主である神の存在をも知っていたのです。ですが、いまだに、この世の歴史の中にも神の介入があることを知っている人は少数です。わたしたちにとって、神は目に見えない存在ですが、その神がイエス・キリストの誕生という形で示されたことが、クリスマスであり、顕現なのです。見えないものが見えてくるときのことを、仏教では「悟り」というのではないでしょうか。
神と人生を悟ることが人生の一大事。
わたしたちの毎日でも、神の働きを、奇跡のようなことだけに限定してまうと、それは稀にしか起こらないでしょう。一生かかっても経験できない事になってしまうでしょう。クリスチャンでも、悟らない人も少なくなく、生きて働く神の業を自覚したこともないのに、神だ救い主だ、憐みだ、救いだと唱えているのかも知れません。ネットで色々な教会のクリスマス礼拝を見てみてそう思いました。牧師は熱心に語ってはいますが、そこには実体験が含まれておらず、クリスマスの説明をクドクドやっているにすぎません。残念なことです。本人が自分の胸に手を当てて、いつどこで創造主の存在を悟ったかを問うてみたら分かることです。説教は、その体験を伝える事だと思っています。有名な話ですが、東京の本郷に偉大な牧師がいて多くの信者が礼拝に集まっていたそうです。彼自身も自己満足に浸っていました。そんなある日曜日の夕方、彼の娘さんの爆弾発言を聞く事になりました。「お父さんの話は、いつもアイスクリームの説明ばかりね。ちっともアイスクリームを食べさせてくれないジャないの。」日本の会衆がこれくらいの批判力を持てば、キリスト教の水準はあがるでしょう。
説教は説明ではなく、救いの体験の告知である。
イエス様の時代のファリサイ派の人々が、やはり見ても見ていない、形式だけの人々でした。パウロは、熱心なユダヤ教徒だった時があります。その時にはまだ、エピファネイア、顕現を体験していませんでした。その頃を振り返って、パウロが書いていることがあります。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者」(第一テモテ1:13)であった。そして、異邦人(日本人も含む)に関しては「キリストとかかわりなく、契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きている」(エフェソ2:12)と述べています。しかし、それをパウロの責任だ、異邦人の責任だと、聖書は責めてはいないのです。ユダヤ人は神を知っているが冒涜し、異邦人は神だ神だと言っても、本当の神を悟ってはいないという事実を述べているだけです。つまり、エピファネイア、顕現を体験の前は、ユダヤ人も異邦人も同じだよと、教えているのです。現代の教会の牧師の多くも会衆も、各種の宗教を信じている人も同じであって、パウロはぜひ現されたキリストを知るように、実体験をもとに福音を伝えたわけです。それが、今日の使徒書の内容です。説明書ではなく、切れば血が出る告白書です。エフェソ書3章2節で、パウロは自分の熱心さや業績ではなく、「あなたがたのために、神がまずわたしに恵みをお与えになった」と述べています。恵みですから、これは百パーセント神の働きです。自分の信心でも知識でもありません。顕現は、ある日突然、外から来るのです。わたしたちに何の特権もなく、何のとりえもなく、美徳もなく、功績もなく、罪ばかりだとしても、この恵みを妨げるものは何もないのです。神の絶対愛を基調としているからです。
この恵みこそ、宇宙の天体のように、闇に輝く神の顕現なのです。それは、神の御計画によるものです。わたしが、初めて教会に行った時に、トラクトをもらったことがあります。その内容は殆ど忘れましたが、その中で「神は貴方のために素晴らしい計画を持っておられる」という言葉がありました。これは今でも忘れていません。忘れていないどころか、これこそパウロがどんな迫害に会っても伝えたかった福音なのだと実感します。たしかにこの計画は真実なのです。パウロは、イエス様が生まれる前には、この神の救いの計画は顕現されていなかったと述べています。だから、多くの人々は「契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きている」(エフェソ2:12)と書いてあったのです。もし、現在でも、心の中にイエス様の霊的な誕生が起っていないならば、「契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きている」(エフェソ2:12)という状態になるわけです。そのご計画とは、わたしたち罪深い者(原罪によって神から離れた者の意味)が、聖なる神の子イエス・キリストの仲介によって、大胆に神に近づくことが出来る事、つまり、神の光、神の愛、神の命を百パーセント受けることが出来るという契約を与えられること、これこそが人生最大の喜びなのです。昔のユダヤ社会では、ただ神官だけが神殿の聖所の奥の至聖所に入ることが許されていました。それは神に近づく場所でした。彼らはとてつもない畏敬の念を持って至聖所に入りました。そしてこの至聖所には契約の箱があり、その上に純金でできた贖いの座があったのです(出エジプト26:34)。つまり、至聖所の存在意義は、神の贖いが中心でした。こうして、昔は隠されていたものが、イエス様の十字架と復活によって、至聖所によっては完成できなかった贖いが完成して、誰でも、どんな罪人でも、その罪を持ったままで、地上の至聖所ではなく、天にある神の至聖所に感謝して入ることが出来るようになったのです。
この喜ばしい出来事が、福音書の三人の博士たちの出来事です。それはまた、イザヤ書の預言の成就でもありました。「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60:1)。現代的感覚でいえば、これまた壮大な天体ショーだったわけです。そして、「ミディアンとエファの若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。」(イザヤ60:6)。実は、このラクダというのは乗っていて楽ではないのですね。エジプトに行った時、ピラミッドの前でラクダに乗って記念写真をとろうと思いました。地元の人にカメラを渡して撮ってもらおうとしたら、カメラを持って逃げようとしたのです。ただ、本物のラクダはモノスゴク背が高くて一人では決して降りられないのです。そこで金を出すから、持ち逃げしないでくれと、こちらがお願いするハメになってしまったのです。ひどい話でした。ラクダの事は忘れられません。これも実体験です(笑)。
福音書の記事には占星術の学者たちが来たと書かれています。彼らはギリシア語ではマゴイであり、メディア王国、イラン北部の高原地帯の魔術師、あるいは魔法使いの事です。アラビアンナイトの中に魔法使いが出たりしますが、まさにこれはペルシャ文化の世界なのです。こうした、魔術師、あるいは魔法使いを聖書が好意的に扱っていることは驚きです。彼らは、異教徒であり、異邦人なのに、ユダヤ人より先に、救い主の誕生つまり、「神が介入して働いていることを示すために、目に見える形で空から現れる」という意味を理解し遠く旅をして、救い主を礼拝したのです。そして、外見は汚れた馬小屋(実際は洞窟)が至聖所となったのです。聖書にはこうした神の奇跡が多く見られます。パウロも言っています。「わたしは罪人の中で最たるものです。」(第一テモテ1:15)しかし、その彼にイエス・キリストは顕現し、彼は救われたのです。小さなもの、汚れたものにこそ大きな救いが示されるのです。「ベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:1)辛い時、絶望するときにこそ、永遠の希望が顕現されるのです。コロナもこれとは無関係ではありません。
三人の博士たちは星に導かれて、ベツレヘムに行き、生まれたばかりのイエス様を礼拝しました。ここには救いの情景が描かれています。何故なら、ユダヤ人が最も軽蔑していた、異邦人の魔術師たちこそ、救い主を示す星を最初に発見し、神がイエス・キリストの誕生という形でご自身を顕現され、見えないものが見えてくることを実体験したからです。占星術の説明ではなく、体験です。彼らの見た星は、おそらく壮大な天体ショーだったとしても、単なる夜空の星ではありませんでした。神の力と愛とがわたしたち自身に大接近することを示したのです。だから、わたしたちにとっても、その星が見えないときには、人生は暗く、辛く、闇であり、キリストの贖いの十字架が罪人としての自分に絶対愛を与えんがためだったという意識がゼロでしょう。ですから、クリスマスは罪の闇の深さを示すとともに、喜びの星の明るさを示すものなのです。キリストの星は、誰にでもやってくる人生の末路の闇と苦しみのただなかにも輝いています。神の御臨在と絶対愛を顕現しています。だから、何があっても平気です。安心です。インターネットを通して、この使信を受けたあなたは、偶然ではなく、まさに神の計画に生かされており、神の至聖所の贖いの座に招かれているのです。今わからなくても、あとで必ずわかります。また、全ての人にこの救いのご計画を示し、神の恵みを伝えるのが、既に星を示された者の栄光ある役割ではないでしょうか。