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エーリッヒ・フロム著、「愛するということ」その1

キリスト教は愛の宗教だと言われます。ただ、教会に行ったことのある人は、その愛とは裏腹な現実を見てガックリすることでしょう。どのような宗教においても、これは共通点なのかも知れません。何故なら、聖書によれば、人間は原罪によって神に離反したからです。これまた聖書の定義によれば、神とは愛であるわけですから、人間の根本問題は、神からの離反、愛からの逃避といえるでしょう。ですから、牧師と言えども、愛について常に学びなおす実用を感じるのです。フロムはユダヤ人ですが、心理学の学者であり、フロイトを尊敬しながらもその見解にある機械的二分論には批判的でした。わたしもアメリカの神学校で心理学も学びましたが、好きな学者は、このフロムとゲシュタルト療法で知られているパールズです。特にパールズは、教室で見せられたカウンセリングの映像が衝撃的でした。本当に魅せられました。

さて皆さんは、愛という言葉が中世の日本では禁句だったのをご存知でしょうか。仏教思想では、愛とは愛着であり、人間に不自由をあたえる煩悩だからです。ストーカーなどの「愛」も神の絶対愛とは違う利己的な執着であり煩悩そのものです。では、わたしたちは煩悩の愛から解放されているのでしょうか。心理学的に見たらどうでしょうか。ちなみに、フロムの両親は正統派ユダヤ教徒でしたから、何らかの形で神の絶対愛を知っていたと推測されます。

本の冒頭で、フロムは言います。「人を愛そうとしてもかならず失敗する。」まず、失敗へのゴーサインをだすところがニクイですね。ただ、本の中で、愛は学びうる技術だとフロムは書いています。そして、面白いことに、わたしたちが体験する愛の高揚感と絆とは、それまでその人がどれほど孤独だったかを示す証拠に過ぎないのだということです。執着できるものがなかったものが、執着できる相手を発見したら有頂天になるのは当然です。これも煩悩でしょう。煩悩は、そこに落ちこむのに苦労はいりません。しかし、愛することは違います。習得しなければならない技術なのです。そして、技術の習得に必要なのは、理論を学ぶことと、実践の中で修練することです。そして、愛の習得に最優先順位をつけなければ、多くの魅惑的関心事が渦巻くこの世で、愛を身に着けることは生涯できないのです。

そこで、フロムは第一に愛の理論について語ります。愛の修練は次の段階です。「アダムとイヴは善悪の区別を知る知恵の木の実を食べ、神への服従を拒み、自然との動物的調和から抜け出して人間となった。」(24頁)フロムの理論の最初に登場するのは、旧約聖書の創世記にある記述です。ただ、フロムはこれを「根源的な神話」と定義しています。彼が両親から聞いた話を、鵜呑みにしているわけではないのです。その後、人間のもっとも強い欲求は孤独を克服することになったのです。神や自然との調和が破れたからです。(キリスト教では、この調和の破れた状態、孤独状態、を原罪と呼びます。)孤独からの脱出のために、人間は諸宗教に頼ったり様々な社会活動に没頭したりします。お祭り騒ぎの熱狂などはその一つです。おそらく、現代の巨大ライブ・コンサートや、大観衆によるスポーツ観戦なども、孤独からの逃避行動の一つでしょう。フロムはトーテム崇拝や性的オルガスム、麻薬やアルコール依存の例などをあげています。しかし、結局は孤独感から逃避することはできないのです。別の方法は、日本によく見られる、「集団への同調」です。一時、流行語にもなった「忖度する」とは、まさにフロムのいう集団への同調であり、孤独からの逃避行為だったのです。日本で集団への同調が強いことは、とりもなおさず、わたしたちの社会の孤独感の溝がトテツモナク深いことをあらわしているでしょう。「三歳から四歳の頃に同調の仕方を教えられると、その後けっして集団との接触を失うことがない。生涯最後の社会的出来事である葬儀ですら、厳格に慣習に従って執り行われる。」(34頁)そして集団への調和の別の側面は、型にはまった生活習慣です。それらは、偽りの一体感に過ぎないとフロムは指摘します。本当の答えは愛なあるのです。人間を孤独から救うのは、様々な偶像ではなく、煩悩の「愛」でもなく、習得しなければならない愛なのです。「この世に愛がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできない。」(37頁)

この愛は、社会調和や偶像への従属ではなく、自分の全体性と個性を保ったままの他者との関係なのです。「愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。」(41頁)キリスト教神学の視点からいえば、「三位一体論」なども愛をテコにして考えると有意義なのではないかと思う。後世の学者に、ぜひともこの点を研究していただきたい。フロムがパラドックスと言っているのは、理論的には弁証法であり、共産主義者でもあったフロムが恩師のフロイトの二元論を批判したのも、この弁証法的思考法によるのだと考えられます。そして、この愛の根底にあるのは、与えることと、与えられることだというのです。フロムはマルクスの言葉さえ引用し、「もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である」、と言います。愛することは愛されることなのだというパラドックス、愛の根底を示しているのでしょう。フロムは、精神分析医が患者を癒すことによって自分も癒されると述べています。この与えるという行為は、理性的なものであり、積極的な配慮の発露であり、学ばなければ習得できない技術だとフロムは述べます。そして、フロムは旧約聖書のヨナ物語を引用し、愛の本質は、何かのために働く事、何かを育てることにあると結論しています。そしてそれは他者への責任と尊重に軸をおいています。わたし自身はアメリカで、「愛は感情だけではなく意思である」という言葉を聞いたことがありますが、フロムの見解にも通じるものがあります。そして、「神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である」(57頁)と言います。ここで思い出すのはフロムの新約聖書論です。彼は、愛の賛歌などで理路整然と愛を説くパウロより、泥臭いイエスの愛の実践の方が身近に感じるというような内容を述べていました。愛の理解が深いなと感じた事でした。ここでフロムは、フロイトが生物学的唯物論の立場をとっており性衝動の精神的な側面を軽視している、と批判しています。人間はロボットのような自動機械ではないのです。

次にフロムは親子の関係によって愛を説明します。子供は親からの愛を受動的に受けて育つわけですが、8歳半から10歳くらいにかけて、自分から愛するという感覚が生まれてくると言います。そして、思春期には自己中心主義を克服していきます。愛することによって、孤独という独房から脱出します。そこでの成長過程は、「愛されているから愛する」から「愛するから愛される」という形に変化していきます。そして愛の対象も、母親から父親にと移っていきます。母親の愛が生物的保護原理に立つ無条件の愛だとしたら、父親の愛は条件付きの愛であり社会的原理の反映です。「母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後には双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。」(74頁)このバランスが取れていない時に、神経症が発生しやすいとフロムは考えます。次に、フロムは愛の対象の問題を扱い、兄弟愛について述べています。親子の愛とちがって、兄弟愛には互いの同等の立場が前提とされています。ちなみに、聖書の用語では、無条件の愛がアガペー、兄弟愛がフィリオス、男女の愛がエロースです。兄弟愛の根本は旧悪聖書に書かれており、「無力な者や貧しい者やよそ者に対する愛こそが、兄弟愛の始まりである」(79頁)、ということです。母親が支配的な愛だけでなく、この兄弟愛的な愛をもって子供の独立、自分からの分離、を受け入れる時に本当の意味で愛情深い母親になるとフロムは考えます。

次に学ぶべきは異性愛です。前述にしたように、聖書の定義ではエロースの愛の事です。異性愛が同時に兄弟愛でないときには、その愛の持続は困難だとフロムは言います。「愛情は性的本能が昇華されたものだとフロイトは言ったが、けっしてそうではない。愛情は兄弟愛から直接生まれるものであり、肉体的な愛の形にも、精神的な愛の形にも、含まれている。」(88頁)   つづく

参照:エーリッヒ・フロム著、「愛するという事」:、紀伊国屋書店、1993年

 

 

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