今週の説教

ポスト(以後)・クリスマスに読む説教

「光に向かう人」       マタイ2:1-12

ポストとはラテン語で、以後という意味です。毎日使っている、10PMなどのPがその略語でMが正午です。だから午後になるのですね。ところで、クリスマスも終わって、新しいもうすぐ新しい年を迎えますね。新年の抱負はどんなものでしょうか。時間的には去年も今年も同じ時が流れているにすぎないのですが、こうして年度で区切って再出発することは悪くないように思います。特に、2020年はコロナの危機に翻弄された年でした。さて、新しい年に、わたしたちはどこに向かうのでしょうか。もちろん私たち人間は、自分がああしたい、こうしたいという願いがあるでしょう。しかし、欲しいものが、叶うことが人生の光でしょうか。そうした、自分の発想に基づいた願いを傍らにおいて、聖書はどういう方向性を示しているかを、このへんでチョット学んでみたいものです。

視点を変えることも大切です。

マタイの福音書2章1節から見てみましょう。ここには幼子であったイエス様の誕生以後をめぐる出来事が書かれています。まさに、ポスト・クリスマスです。ここに登場する占星術の学者は、マゴイと原語には書かれておりマジックの語源でもあります。ですから、魔術師のような人々だと考えてもよいのです。聖書は迷信や偶像礼拝を排除するのに、不思議なことに、ここではそうした差別はみられません。星を見て天の神の心を知ろうとする働きは否定されてはいません。まあ、アブラハムなどもそうでしたからね。ただ、他の宗教も肯定されていることは興味深いことです。良い事だと思います。わたしにも仏教の僧侶の友人がいます。それにしても、当時は異邦人だけでなく、ユダヤ人の間にも待望のメシアの到来を星の動きによって知ろうとした動きがあったようです。イエス様の誕生の時代には、預言が途絶えて何百年もたった、いわば暗黒時代でした。神の語りかけを直接聞けなくなった人々は、星の動きにかすかな希望をよせたのです。

ではわたしたちは、何に人生の希望をよせているでしょうか。コロナを経験したわたしたちは、普通の生活がどれほど大切かを再認識しました。曽野綾子というクリスチャン作家は「この世はかりそめの世である」と思いなさいと書いています。大震災のときもそれを感じました。キリスト教に限らず、宗教というものは、現世肯定ではない場合、つまり現実の脆さを説く場合がおおいのではないでしょうか。平時はだれもそんなことに耳を傾けません。普通に生き、普通に会食し、普通に仕事に出ることに、だれも感謝はしなかったはずです。しかし、一人になって、人生を冷静にみれば、素手で砂をつかもうとするのに似てはいないでしょうか。すくってもすくっても、零れ落ちるのではないでしょうか。メシアの到来は、こうした人生を大転換させるべきものでした。

それにしても、救い主の第一発見者が、こともあろうに異邦人の魔術師たちであって、エルサレムの「敬虔な宗教家」たちでなかったことは注目に値します。聖書に、先のものが後になり後のものが先になる、という良い例でしょう。また、正しいと思っている人が最初に救われるのではなく、正しくないという自覚を持った罪人が最初に救いの光を受けるしるしでもあります。これを広く考えますと、わたしたちにとって厄介な事柄が、実は神の大いなる祝福のカギであることがわかります。イヤナモノ、イヤナヒト、これがよいことでもあるのです。あの魔術師(マゴイ)たちは「にせ預言者」とも呼ばれて、誇り高いユダヤ人からは軽蔑されていたのです。ですから、わたしたちも高いところに目線を置くのではなく、低いことや、くだらない思い、空疎な世界に思いをはせ、そこですら神の用いる材料が豊富にあることに開眼することが大切です。それが、闇の中に光を見ることになるでしょう。

人生最低の底辺にも光はある。

さて、2節でこうした占星術師(魔術師)の話を聞いたヘロデ王はうろたえました。不安というより、狼狽したわけです。人間の動揺には、その人の背景が関係します。自分の大切にしているものが失われるから狼狽するのです。これはひどいものです。日本では医療従事者への差別が起こっています。せっかくコロナ患者の治療に命がけで働いてくれている人々に対し、自分の健康第一に考え、それに脅威を与える感染を恐れるからです。ヘロデ王の恐れは王権でした。ヘロデの狼狽は、彼の権力意識にありました。政権維持のために、妻も殺し、息子も3人処刑した人です。それほどまでに王位にこだわった人がヘロデでした。自分がトップであって、これだけは人に渡せないと思っていたのでしょう。ですから、ヘロデには、メシアの到来は、神の使者が自分の王位を奪いに来ると恐れたわけです。

ヘロデにとっては王位が至上の宝でした。家族や財宝よりもこの王位にこだわっていたのです。失いたくないものでした。わたしたちは、だからといって、ヘロデを軽蔑することができるでしょうか。自己中心なのはヘロデだけでしょうか。ここでもわたしたちは、上を見るのではなく、自分の心の闇の淵をのぞいてみる必要があります。そこに見えてくるのは傷だらけの自分の姿かもしれません。罪深い自分の姿かもしれません。見たくない自分が潜んでいるでしょう。しかし恐れなくてよいのです。そんな、マイナスの極限のようなわたしたちであっても、わたしたちを愛し、すべての罪の身代わりとなって十字架にかかってくださった方がいたのです。わたしたちの傷を癒す方が生まれた、というのがクリスマスであり、わたしたちはポスト・クリスマスに生きているのです。でも、やがて死ぬ時もあるでしょう。いや、コロナで死ななくても、すべての人は必ず死ぬように定められてしまったのです。原因は原罪です。神からの離反です。神は、聖書によれば、永遠の命ですから、永遠の命から離反したら、限定的命になるのは当然です。十字架の働きは、この原罪の除去でした。この辺は難しいので、また機会があったらお話ししましょう。

ところで、ヘロデ王だけでなくエルサレムの神官たちも狼狽しました。救い主こそ彼らが求めていたかたではなかったでしょうか。そのことを通して、マタイ福音書の記者は、エルサレムの宗教者たちもヘロデと同じようなこだわりを持っていたことを明らかにしているのです。当時の宗教者たちは、ローマ帝国に迎合し家族さえ殺すヘロデを良く思ってはいなかったはずです。ですが、同じ不安、同じ狼狽を見せたということで、彼らも同根であると示されています。ここが大切です。一見して悪代官のようなヘロデ。水戸黄門のような白ひげを蓄えた神殿に仕えるユダヤ人長老たち、彼らは同根だと、非常にクールにマタイ福音書の記者は告げているのです。(同じ穴の狢)それはまた、わたしたちに向けた痛烈な一打でもあります。自分こそ人生の王、人生の主人であり続けたいと思っているのです。わたしも学生時代に救い主を信じるまでは、自分が自分の主人でした。それは、極論すれば、神は自分だということと同じです。コロナ疫病は、その自信を崩しました。3千年前にユダヤ人がエジプト人のから受けた奴隷支配から脱出したのも疫病によるものでした。科学的に見れば、衛生観念がハンパナク高かったユダヤ人は疫病の被害を受けす、「過ぎ越す」事が出来たのです。それはともかく、人間の自己中心性はどこでも同じです。その証拠に、イエス様を十字架につけたのもヘロデと、外見は善人に思える宗教的指導者たちだったのです。パウロは、善人はいない、正しい人は一人もいない、悟る人も、神を探し求める者もいないと書いています。自分が神だからです。ただ、パウロの偉いところはローマ書などを通読するとわかりますが、まず、そういう自分が善人ではなく悪の骨頂、悪の枢軸国に匹敵するという意識を強く持っているわけです。ですから、普通の人間のように、ドラマを見ていて、早く悪人の支配が終わって、水戸黄門のような最後の切り札がだされないかなと心待ちにしているわけではないのです。悪は自分の中にあることです。悪人(罪人)は自分のことです。ちなみにドラマの悪役は舞台裏では優しい人が多いそうです。悪を演じていると自分の悪を痛切に自覚するからだと言われます。これは救い主の贖いなしには救われません。どうしてそこまでする必要があるのか、と問う人もいるでしょう。聖書は、そこまで悪の根元を掘り下げることを求めます。ルターも深めました。ルーテル教会は、そうした罪責感が深かったので、戦前は諸教派の中でも有名でした。いまは、出版物などを通読しても、残念ながら、そうではないと思います。

皮肉なことに、こうした背景で、ポスト・クリスマスで幼子イエスを拝み、心からの供え物をささげたのは、魔術師たちでした。ヘロデは自分も礼拝しようとは言いましたがそれはウソでした。真実の礼拝の姿がここに示されているといえるでしょう。大きな喜び、ひれ伏す謙遜、そして献げるものです。明治時代の日本人牧師がこう書いています。彼は外人宣教師と一緒に小さな家庭礼拝を2人で持ちましたが、その時に宣教師が献金しました。日本人牧師は驚いて、なぜ2人だけなのに献金の必要があるのかを問いました。すると外人宣教師は、献げものなしの礼拝はありえないと説明したのです。ですから、博士といってもよいし魔術師でもよいのですが、彼らの行為は救い主に対する初めての礼拝でした。礼拝には喜びがあり、体を伏し頭を下げる謙遜があり、持つものすべてを献げる感謝の思いがあったのです。当時のユダヤ人社会をみてみますと、エルサレムでの神殿礼拝は全く正反対であったろうと思われます。喜びではなく、義務感や恐れがあったでしょう。謙遜ではなくプライドや優越感があったでしょう。献げる思いではなく自分が願いを叶えてもらおうとする取引のような貪欲さがあったでしょう。日本の神社でのお賽銭も、礼拝の一形式ですが、小銭を投げ入れて大きな願いを聞いてもらおうという行為自体が矛盾しています。聖書には、貧しい寡が、その日の生活費全部を献金したという逸話が残されています。ちなみに、謙虚に礼拝した魔術師たちは、黄金、没薬、乳香を捧げました。彼らの喜びは、原語を直訳すれば「信じがたいほどの大きな喜びをあふれるほど喜んだ」と書いてあります。モーレツな喜びです。筆舌に尽くせない本当の光に出会ったからです。この喜びこそ救い主の降誕の、ポスト・クリスマスのしるしです。わたしたちのクリスマスも終わってはいません。ポスト・クリスマスがあります。わたしたちも、卑しき姿の東方の異邦人、無神論者(わたしは以前は共産主義者)、偶像礼拝者、異教徒、カルト信者かもしれませんが、神の導きによってこのメッセージに出会っています。偶然ではないのです。あなたが、このサイトを訪れた事が神のポスト・クリスマスへの招きなのです。あなたが、神の絶対愛で愛されているからです。パウロも感じました。アウグスチヌスも感じました。日本の聖徳太子(別名厩戸皇子)も感じました。マルチン。ルターも感じました。ナイチンゲールも感じました。トーマス・エジソンも感ました。マザーテレサも感じました。今、コロナの闇があっても、ポスト・クリスマスの出エジプトの暁の星は出ています。光に向かいましょう。東方の低き人々はわたしたちのことでのあります。来る年は救い主に出会い「信じがたいほどの大きな喜びをあふれるほど喜んだ」、という経験をいただき、自分の手放したくないものもすべてを献げて、身軽になって賛美する道をあゆませていただきましょう。光あるうちに光を信じ、光に向かって歩きなさい。イエス・キリストに向かいなさい。偽善のユダヤ人指導者ではなく、東方の博士たちのような礼拝者になりなさいということです。(ヨハネ12:35)主の栄光があなたの上に現れる(イザヤ60:2)でしょう。

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