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エーリッヒ・フロム「愛するということ」その2

誰にも関心があるのが、異性愛ではないでしょうか。素晴らしい相手と出会い、恋をして、結婚して、幸せな家庭を作るのが多くの人の夢ではないでしょうか。ただ、フロムは、そのような自然発生的な愛に関しては余り肯定的ではありません。愛という観点からは、それが「愛」と呼べるものなのかどうか、疑問を持っているようです。相手の外面ではなく「相手の本質と関わる」ならば、愛と言えるのです。これは理解がむずかしい部分です。もっとわかりやすくいえば、愛とは消え去っていく感情ではなく、相手の中にある異質性ではなく、自分と同じ本質を愛し続けていく意思なのです。ですから、自己愛なしには、異性愛も成立しません。自分の本質を愛することなくして、異性の本質を愛することは出来ないからです。フロイとは、自己愛について否定的な考えをもっていて、それをナルシシズムと同じものと考えたそうです。わたしたちの多くもそう考える傾向があるでしょう。この点について、フロムは反対です。彼は自己愛が欠けた状態が利己主義だと考えます。ですから、自己愛がない時には、異性愛も存在できないのです。自分を真に愛することができない者が、自分と同じ本質を所有する異性をも愛せないのは当然です。ここで、フロムは聖書を引用し、「汝のごとく汝の隣人を愛せ」、と述べます。わたしが常々思っている事なのですが、フロムは優れた心理学者であると同時に、神学者のようでもあるのです。勿論、彼がまだ生きていたらそれは否定すると思います。しかし、聖書に書かれている人間存在の根底にある真実は、科学的見地に立った心理学とも不思議に共通するのです。だから、「一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。」(95頁)勿論、この中に異性愛も含まれます。「もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。」(96頁)

愛の失敗例の原因は、ここにあるのではないでしょうか。自分が不幸で、異性によって幸せをつかみとろうとすることは利己主義でしかなく、不満から抜け出すことはできないわけです。

次に、フロムは「神への愛」と題して、諸宗教がもつ超越的な存在に対する愛の分析を行います。これは、心理学的に言えばほかの愛と変わらないのです。自分の孤立を克服したいという欲求に由来するものです。たぶん、宗教における熱狂も、大スタジアムでのアイドルの演奏に対する熱狂も、心理学的に見たら、孤独の解消手段として共通するのでしょう。わたしもそう思います。ちなみに、アイドルとは偶像の意味ですが、人間は人間が作り出したもの、いわば疎外された自分自身を神として崇拝し、愛の対象とするのです。宗教学的には、無条件の愛をあらわす自然的な母権的宗教から、次の段階である父権的宗教に移行し、規律や掟が重視されるといます。それは私有財産制度の発達とも関連します。自然に包み込まれる存在から、自然を分割し、所有する段階へと移行するのです。この段階での愛は、所有する愛ともいえるかも知れません。しかし、「ルターは自分の根本的主張として、人間はどんな行為によっても神の愛を獲得することはできないと述べた。」(105頁)ルターは所有愛には否定的だったわけです。当時のカトリックの教理では、善い行為を実践することで、神の愛を所有できると教えていたのです。フロムは神学者でもないのにこの辺には深い洞察を与えています。つまり、ルターの教説は、規則や掟で愛を所有する愛ではなく、それ以前の母性的愛であり、それは「信じること」によって与えられるのです。わたしもルーテル教会の牧師として、ルターの教説である「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ」は何度も聞いていますが、心理学的見地からの分析は、フロムのものだけしか知りません。

ルターの宗教改革の原理は、父権的宗教から母権的宗教への復帰だった。

ですから、ここに、仏教の教派の一つである浄土真宗とも、母権的宗教としての共通点が見られます。南無阿弥陀仏ととなえ、阿弥陀如来の誓願を信じるだけなのです。しかし、「真に宗教的な人は、もしも一神教の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神に対していっさい何も求めない。」(110頁)そういう人は、神に求めるのではなく、身をもって愛と正義に生きるのです。

ここから、一転してフロムは、論理的なアリストテレス的思考法と、ヘラクレイトス的逆説論理学的思考法の違いについて述べています。逆説論理学的思考法とは弁証法ともいえます。そして、この考えをもった老子の言葉を引用し、「道を知る者は、道を語らない。道について語ろうとする人は道を知らない人である」(116頁)、と述べています。そのことによって、フロムは実在と非実在の間に対立はないと言いたいのだと思います。これを愛の問題に引き寄せて考えると、「愛を知る者は、愛を語らない。愛について語ろうとする人は愛を知らない人である」、と言いたいのでしょう。フロムはここにまできて、自分は愛について語らないと言っているかのようです。「逆説論理学の立場からすれば、重要なのは思考ではなく行為である。」(120頁)愛について語るのではなく、重要なのは愛の実践だと説いているのだと思います。それは、わたしたちの思惑の決定的な否定です。愛の事を思考的に知りたくて読んできた読者に対して、フロムは、ヘラクレイトス的逆説論理学的思考法をとりあげ、読んで知ろうとすることがいかにも空しい行為であり、重要なのは行為であると放り出しているのです。否定による肯定です。読者を生かすには、読者を否定するしかないのです。ここにきて、わたしが思いだすのは、禅宗の公案のことであり、悟りを求めて高僧に面会を申し出た者が、面会を厳しく否定されることで悟ったという話です。これも否定による肯定でしょう。わたしたちも「愛するということ」を心理学者のフロムから学びたくて、読んできたのに、その思考自体が否定されたのです。「アンタニハ、ムダ!」と宣言されたのです。けれども、フロムの論理にしたがえば、愛の否定は実は愛の肯定だとも言えるのです。「要するに、逆説的思考は、寛容と自己変革のための努力を生み、アリストテレス的な姿勢は、教義と科学を、すなわちカトリック教会と原子力の発見を生んだのである。」(121頁)そこで、この観点から見ると、西洋社会での宗教体系は、神への愛とは思考上の体験でした。フロムは、思考上の体験に否定的です。他方、東洋の宗教では、神への愛は一体感という感覚上の強烈な体験だったのです。フロムが来日した際には、かなり徹底的に座禅に取り組んだという逸話がありますが、それにはこんな背景があったからでしょう。フロムは西洋人でありながら、自分の西洋性を否定し、否定することによって全面的に受け入れているのです。「このように見てくると、神への愛は、親にたいする愛と密接な関係にあることがわかる。もし、母親・部族・民族にたいする近親相姦的な愛着から抜け出せないと、あるいは、賞罰を与える父や、他の権威に依存するという子どもっぽい段階にとどまっていると、神への愛を成熟させることはできない。」(123頁)フロムが言いたいことは、神への愛と人間への愛には類似点があるという事です。愛とは何かという考えを持とうとすることによって、その人は愛の本質を見失っている。

最後のステップとして、フロムが描き出しているのは、愛の理想像ではなく、「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」の現実でした。読者には意外なことです。愛の理論を学んで、ようやく出発点に立ったと思ったら、あなたはもうオワッタと宣言されたのです。しかし、愛の否定こそが、愛の肯定なのだと察知する読者も存在しなくはないでしょう。なにしろ、ヘラクレイトス的逆説論理学的思考法であり弁証法ですからね。今日はつかれたのでこの辺でわたしたちも終わりましょう。弁証法的に言えば、終わりこそ開始なのです。次につづく

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