印西インターネット教会

新年を迎える準備が出来ていない時に読む説教

「準備完了?」             ルカ3:1-6

ルカ福音書に書かれているティベリウスは、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 – 37年)でした。その治世の15年ですから、西暦29年にこの聖書の出来事が起こったわけです。ティベリウスは、イエス様が伝道し、十字架につけられたときのローマ皇帝です。イエス様の言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウスのことを指しています。また、その他の人物、ピラト、ヘロデ、フィリポ、リサニア、アンナスとカイアファも、当時の実在の人物です。

ところが2節では、神の言葉が荒野でヨハネに下ったとあります。それまでの、普通の歴史の叙述のなかで、突然、聖霊に言及するというのは、いわば青天の霹靂です。頭上に「ピカッ!ゴロゴロ」とくるようなものです。アモス書4:12には「お前は自分の神と出会う備えをせよ」とあります。コロナでボロボロになったわたしたちは、どんな思いであたらしい年に直面したら良いのでしょうか。準備とはいかなるものでしょうか。

これと関連してイエス様の興味深いたとえ話があります。ルカ14:15以下の「大宴会のたとえ」です。ある人が盛大な宴会をひらいて、僕をつかわし、客人に「準備ができたのでおいでください」と伝えさせたのです。ありがとうございます、すぐ行きます、ならよいのですが、人々は「畑を見に行くので失礼します」とか「牛を買ったので見にいきますので、行けません」、あるいは「結婚したばかりなのでいけません」などと言って次々に断りました。これが、当日の招待ならしょうがない面もありますが、彼らはすでに招待を受け取っていたのです。招かれていたのは知っていたのです。本来なら、準備が整っていてもよかったわけです。けれども彼らは、畑や、牛や、結婚という、それ自体は生活面で重要な出来事ですが、これを神の招き以上のものとしてとらえてしまったのです。優先準備の問題でもあります。それはわたしたちが直面する問題のことでもあります。新年を迎えるに際して、何を第一に考えるべきでしょうか。

聖書はそれに対して、「心が鈍くならないように注意しなさい」(ルカ21:34)と教えます。目覚めていなさい。「悪魔の罠にかからないようにしなさい。」(第二テモテ2:26)、という助言もあります。物事の大切さの比重を知りなさいということです。畑や牛よりも大切なものがあることを知りなさい。食べるものと着るものがあれば十分です。(第一テモテ6:8)肉の欲、目の欲、生活の欲は神から出たものではないので、過ぎ去っていってしまうものにすぎません(第一ヨハネ2:17)、とも戒められています。一過性のものと、永続的なものとの見極めが大切ですね。

しかし、それでも、何度聞いても、わたしたちの心はどうしても鈍感になってしまって、新年における神の新たな招きを受ける準備ができていない状態がおこってくるわけです。イエス様の時代である、二千年前も同じでした。人間の弱さです。そこで、宗教の権威者ではなく、荒野のヨハネという一人の人物に、霊が下り、彼は「心を変えよ!向きを変えよ!主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と説教し始めたのです。

現代に生きるわたしたちは、新しい年に、どのように向きを変えたらよいのでしょうか。ルターの時代にも疫病の大災害がありました。人口の三分の一が減少するくらいの過酷さでした。この問題に対して、ルターは同一のものを二つの側面から見ることを勧めます。一つは神を基準とする面です。もう一つは人間を基準とする面です。人間的に「これで安心」と考えるときに、神との関係では、それはまさに「不安定」意味します。牛の世話ができたから安心、嫁の世話が済んで安心、畑の世話ができて安心と思っていると、実は「最大の安心感こそ最大の試練」、「最大の富こそ最大の貧困」、「最大の正義は最大の不正義」、「最大の知恵は最大の愚かさ」なのです。逆に、最大の不安は最大の安心という事です。それを理解するのが、神を基準とする視点です。

さて、旧約の日課のマラキ書には、3節に「レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く」と書かれています。レビとは祭司の家系です。また、献げ物は「主にとって好ましいものとなる」と書いてあります。17節には神はわたしたちを憐れむとも書いてあります。わたしたちが正しい人だから憐れむのではなく、最大の試練、最大の貧困、最大の愚かさに悩む者、あるいはそれさえ自覚できない者であっても、神の憐れみによって、いやされる道が誰にでも備えられていると宣言されているのです。なんという恵みでしょうか。わたしたちに、霊的な準備はありません。しかし、ヨハネのような人、本物の祭司、仲保者を神は与えてくれます。それも恵みです。神の側が100パーセント備えてくださるのです。わたしたちなら行き詰まって挫折するとき、自分はなんと哀れな人間だろうと自己憐憫に陥る時に、ヨハネのような霊的な人を通して本当に具体的な救いの道が必ず現れるのです。キリスト教は自分で試練にガムシャラに抵抗する信仰ではなく、救い主に助けて頂く信仰です。

そのヨハネが行った最初のことは、悔い改めの洗礼でした。その一方で、神殿では犠牲がささげられ、罪の赦しが宣言されていました。ヨハネの父ザカリヤも祭司でした。ですからヨハネは神殿祭儀をよく知っていたでしょう。ところが、ヨハネは神殿の儀式には否定的でした。罪の赦しのために、形式ではなく、真の心の悔い改めを求めました。ヨハネは、神の言葉を聞き、霊の導きに従って悔い改めの洗礼を行ったのですが、これは大きな問題ともなりました。神殿の祭司たちが自分たちのやり方が正しいと思っていたからです。既得権利の防衛という事ですね。ですから、彼らによれば、ヨハネの洗礼は決して許せない違法行為でした。ヨハネが処刑されたということは、こういうところにも原因があったと考えられます。神の思考に人間の思考は敵対します。ですから、わたしたちも、わたしたちの思考を捨てない限り、神の思考に敵対しているのです。

わたしはいつの間にか、祭司たちのように、自分たちのやり方だけが正しい、昨年やったように来年もやらなければならない、と思いこんでしまう傾向があります。でも、本当にそうでしょうか。このコロナ禍で、自分は、どれだけ神の愛や正義をあらわしたでしょうか。み言葉を実践したでしょうか。家族の間ではどうでしょうか。いつも相手に期待し、相手が変わるよう願ってきたのではいないでしょうか。

一例をあげましょう。ある家庭の妻は、大きな問題を抱えたご夫をかかえて困りぬいていました。ある夜、子どもと二人で、酔っている夫の首を、ネクタイで絞めようとしたほどだったそうです。そんなある時、「愛はあなたを変える」という教会の案内を手にしました。「そうだ、キリスト教なら夫を変えてくれるかもしれない」とかすかな希望をいだき、様子を見に、まず自分が教会を訪れました。しかし出席するにつれ、「夫が変われば」と思っていたのが、「変わらなければならないのはこの私だ」と気づき始めました。こうして妻の方が変わりました。「私に愛がなかったばっかりに…」と夫に謝りました。妻の変わりように驚いた夫も教会に行き、イエス様を信じてすっかり変わり、家中がすっかり明るく変わったそうです。この変化は「まず自分が変わらなければ」と妻が自覚した時から始まりました。自分の曲がった道、凸凹道が見えたのです。ルターは「最大の知恵は最大の愚かさ」と言いました。そして、その反対も教えています。「最大の愚かさを知ることは最大の知恵です」妻は自分の愚かさを知り、それを神にゆだねたのです。

わたしたちもこのようにして新年を迎える事が出来ます。自分の義によってではなく、神の憐れみによって、御子イエス・キリストの救いを待ち望むものに変えていただけるのです。皆さんのうちに働いて、救いを望むような心を与え、神のみ心、つまり古い生活様式と古い思考形態を神にゆだねるようにしていただくのです。ただ、不平や理屈を言わないでおこないなさい、と書いてあります。(フィリピ2:14)全て任せることです。イエス様の招待の例え話でいえば、心配いらないから、牛も神に任せなさい。畑も神に任せなさい、という事です。わたしたちの新年の準備も、仕事も神に任せなさい。教育も育児も神に任せなさい。学校も神に任せなさい、結婚も神に任せなさい。子供のことも神に任せなさい、健康や死後のことも神に任せなさい、安も希望も神に任せなさい、この世もあの世も全て神に任せなさい、という事です。その時、わたしたちの道は必ず素晴らしい方向に転換します。霊的な生き方が始まるのです。アメリカの神学者ラインホールド・二ーバーもこの事を知っていました。そして、このような祈りをとなえました。「神よ、わたしに、自分に変えることができることとできないことを区別する力をお与えください。変えることが出来ないことは、あなたに委ねる謙虚さをお与えください。変える事が出来ることにたいしては、変える勇気をお与えください。」実は、これが神に任せるという事です。来るべき新年も、この方法で準備することができます。

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