今週の説教

一年の終わりに読む説教

「人生の避け所」      マタイ2:13-23

今年も一年最後のメッセージの時となりました。考えてみれば、我が家も住み慣れた八王子から千葉の印西市への引っ越しで気ぜわしい日々がありました。それよりも、春から脅威を感じたコロナがここまで長引くとは思ってもいませんでした。しかし、こうして年末を迎え、神が与えて下さった数々の恵みにたいして感謝するとともに、人生には、避け所、また砦のように、身を守るための逃れ場が必要であると、改めて覚えたいものです。というのは、人生には、コロナだけでなく、しばしば大きい嵐のような苦しみ、試練、悩みが襲ってくるからです。我が家の親戚の中にも、今年は舌癌のためにほかの部分の筋肉を移植した者、脊椎の中の靱帯が骨化したため脊椎の一部を切除する手術を受けた者などがいます。そんなとき、何も信念をもたない人は、怖じ惑ってしまうでしょう。別の例ですが、妻の一番上の姉の夫は広島で子供の時に被爆しました。爆心地から1.6キロでした。原爆の威力はものすごく、高尾山から立川の距離を直径とした範囲が火の海になりました。犠牲者は20万人と言われています。でも、義理の兄は、住んでいた家の厚い土壁が避けどころになって、家族全員の命は助かりました。昔ながらの土壁が、身を守るための逃れ場をつくったのです。

聖書の中の人物も、悩み苦しむたびごとに、神様の御前に、心のすべてのことを注ぎ出し、そこに逃れました。「神は、われらの避け所である。」詩篇62篇8節、と書いてあるとおりです。

さて、今日の福音書をみましょう。ここで、占星術の学者が登場していますが、記録では、イエス様の誕生の前後に星の大接近があって一つの星のように輝いたそうです。昔の注釈者は、モーセの誕生の前にも星の大接近があり、これはイスラエル民族の第1回の解放を現わしたと言っています。モーセはユダヤ人でしたが、占星術の学者は異邦人です。ここで大切なのは、ユダヤ人ではなく、真実の神とは無関係に生きてきた異邦人が救い主の誕生を予見したということです。もともと神を知っていたユダヤ人つまり、先のものではなく、後から来たもの占星術の学者が真実を発見したのです。マタイ19:30「先の者が後になり後の者が先になる」と教え、一見して神の世界にふさわしくない者が実は相応しいことが明らかにされています。わたしたちも、こういう物の見方を身につけたいものです。相応しくない者が、実は相応しいことがあるわけです。人間の判断の逆転であり、人間の考えを絶対化しないほうが賢明です。

こうして一年の終わりを迎えて感じるのは、神の栄光と人の世の苦しみの織りなす模様です。聖家族はエジプトに避けどころを求めました。聖書に出て来る場面では、ヨセフは、夜、夢の中で天使の声を聞いて、「夜のうちにエジプトへ去り」とあるように、まだ朝にならないうちに、即、行動に移して、エジプトに向けて出発したことになります。朝になって、みんな起きてから、「実はこういう夢を見たので、エジプト行きを考えているんだけど...」と相談して、話し合って決めるのではなく、夜のうちに出発したのです。人間の相談ではなく、ヨセフは天使の語るみ言葉に従ったのです。現代人は、あまりに賢く、頭が良くなりすぎて、神の声が聞こえないのかもしれません。でも、昔の人は素直に神様のみ声に耳を傾けていました。

ときには静かに、神からの声に耳を澄ませてみよう。

当時、ヘロデは怒って16節にあるように、幼い子供たちを虐殺させました。ここで、ヘロデが悪魔の手先となっています。そして、ベツレヘム周辺の子供たちが、救い主のための最初の殉教者になっています。救い主の登場は、悪魔の攻撃をうみます。神の栄光は常に暗黒の力、憎しみ、排除、疑い、陰口、策略の対象になります。イエス・キリストの人生は初めからそうでした。人間的にみたら、何の防御もなくエジプトに逃げた聖家族は、まさに滅びる寸前でした。しかし、逆に見ると、苦しみの背景に神の栄光があります。イエス様も、神の愛があるからすべては平和だとは教えていません。神の愛があるから、絶対コロナにかからないとも言いません。「あなた方を遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。人々を警戒しなさい。すべての人に憎まれる。迫害される。」マタイ10:16 使徒書も「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害をうけます。」第2テモテ3:12 神は守り神ではありません。神はわたしたちの創造者です。さまざまな試練も、神の存在とは無関係ではありません。ですから、わたしたちも、迫害と試練に耐える覚悟が必要です。それが神を敬う態度です。

ただ、悪の力を神様はいつまでも放置しません。戦争も終わる時があります。疫病や自然災害も必ず終わります。19節にあるように、ヘロデは死に、迫害も一時的に停止しました。ヘロデの死は惨めなものでした。妻や自分の子供たちを殺害し、自分も癌などの病気に苦しみました。このヘロデの死によってエジプトにいた聖家族は守られたのです。今でも、エジプトのカイロに行きますと、聖家族が避けどころとした地域が残っています。エジプトという国全体がイスラム教ですが、そこだけは十字架が立っていて、今でもキリスト教です。この地域がなくては、救い主が守られることはなかったことでしょう。ホセア書11章1節に「エジプトから、彼を呼び出し、我が子とした。」とある通りです。これらの出来事の根底にあるのは、人間の心には神の無視や、神への反逆があるという事です。こうした、人間の姿を神は預言者と通して指摘したのです。しかし、同時に、わたしたちを、こうした神からの離反から救ってくれるのが、イエス様であると教えています。

エジプトは、ユダヤ人にとって決して安全な場所ではありませんでした。異教の土地でした。しかし、そこが避難の場所になったのです。これは、旧約の預言の成就であり、救い主であることの証明でした。だから、マタイの福音書の記者は、救い主がこの旅路をとることを示しているのです。イエス様が、本当の救い主なら、本当の救い主を信じた者も、イエス様の通った道を辿っていくことになるでしょう。救いを体験した者は、二次的三次的な救いの体験を生み出していきます。

人生の中で、まことの神に対する信仰を持った者には、間違いなく、逃れ場が与えられます。たとえ困難が押し寄せてきても、神様は私たちを救い出されるからです。わたしたちが人生で出会った困難や問題も、神はすべてが益なるように変化させてくださるのです。聖書は言います。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ書8:28.それは、わたしたちが律法の支配から購いだされて、神の子となるためです。

エジプトとはみ言葉による避けどころでした。み言葉の守り、これが避けどころであり、礼拝の大切さです。ルターは礼拝で説教されたみ言葉のみを信じたといわれています。そして、「神の言葉のゆえに迫害を受けているすべての人々への回状」でルターはこの様に教えています。「わたしたちは、心から神に感謝すべきです。神が、聖なるみ言葉をわたしたちからとりあげず、み言葉に対するうむことのない霊と愛とを与えてくださったからです。これこそ、人のゆえにではなく、み言葉そのものの故に信じている証拠です。その人たちは、たとえ、このルターがみ言葉を否定し、これに背き、どんなに悪い、ひどい、恥ずべきことをしたと聞いても、これを意に介しない、み言葉にとどまる正しい人たちです。彼らはルターを信じているのでなく、キリストご自身を信じているからです。」 つまり、ルターにとっては、み言葉、すなわちキリストご自身が永遠の避けどころだったとわかります。イエス・キリストにしか、人生の嵐のような苦しみ、試練、悩み、そして人間の罪から守る避けどころはない、と一年の終わりに再度覚えましょう。

人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように。

 

 

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