有言実行を強調するヤコブ
ヤコブの手紙4章11節 -17節 文責 中川俊介
11節でヤコブは再び、兄弟たちと呼びかけます。「ヤコブがキリスト者の仲間としての聴衆に語りかけることに戻る時、段落の厳しい調子は消え去る。修辞学的にこの調子の変化は、主のもとに帰るようにとの命令が成功であったことを示唆する。」[1] そこで、お互いに悪口を言ってはいけないと戒めます。この悪口という言葉は、陰で誹謗中傷するという意味です。建設的な批判ではなく、相手には言えないようなつぶやきであり、教会の平和を破壊するものです。「謗(そし)ることによって兄弟の平等性は犯される。」[2] これをヤコブは禁じるのです。何故なら、そうした悪口は兄弟への不平等な裁きだからです。「初代教会にとって悪口は問題であった。」[3] そして裁きは、律法を裁くことになると言います。律法の典型とも言えるレビ記19:16においても、隣人に対する中傷は禁じられています。中傷しないだけでなく、隣人愛が教えられているのです。イエス様の教えの原点はすでに旧約の律法に見出されます。ですから、律法を裁くとはこの愛の教えを無視することではないでしょうか。それは一部の教会員にみられた現象でした。おそらくこれは、「自分たちはもはや律法の束縛を受けないと豪語していた疑似パウロ主義者に反対するために繰り返し述べられている事柄」[4]、なのでしょう。さらに、律法を裁くならば、その人は裁判官になっているといいます。これはどんな意味でしょうか。推察するに、自分が負っている役割でないものになってしまうことが越権行為であり、神の定めた境界を越えることになるというのではないでしょうか。ひいては、こうした日常的な行為が神への冒涜行為となるのでしょう。ただ、それを自覚する者は多くはないと思います。
やはり、12節でヤコブは、神との関係を示します。つまり、律法を付与する者、あるいは審判者は神のみなのです。 だから。裁く者となって神の座にすわってはいけないのです。無神論というのは、神が存在しないという事ではなく、実は自分が神の座にすわるという有神論なのです。ですからここでも、ヤコブの指示は、この世の道徳によるのではなく、神との関係によって判断されます。特にヤコブは神「のみ」が審判者であることを強調しています。「唯一者と共に律法授与者また審判者とは言うまでもなく神のことである。」[5] 確かにそうです。だから、イエス様も裁くなと教えられたのです。ただ、この当然なことを我々はなかなか行えないのです。ヤコブはさらに続けます。この方こそ、救うことも滅ぼすこともできる方であると。わたしたちの信仰生活の実感では、神は救う方であると理解できます。しかし、ヤコブが言うように、神が滅ぼす方であるというのも聖書には書かれています。この滅ぼすというギリシア語にはアポルマイが用いられており、それは、「殺す、失う、救わないでいる」などの意味があります。神が積極的に罪人を殺すのではなく、むしろ、救わないでそのままにしておくというのが正しい理解でしょうか。それとも、人を裁くという罪は他の罪とは違う重みがあるのでしょうか。そこで、ヤコブは、隣人を愛すべき我々信仰者が、裁いているとは、何事なのか、裁く者は一体誰なのかと問いかけています。「この諸節で律法は原理的、根本的に神と人間の間の限界、裂け目の役割を果たしている。」[6] この限界を越えることが罪の本質なのです。そして、罪のない者はイエス・キリストを除いては一人も存在しません。旧約聖書のヨブ記を読んでも、その点を痛感させられます。あの場合、サタンが既にヨブの心を誘惑し、限界を越えさせていたのかもしれません。
13節を見ますと、ヤコブは例話をあげます。そして、聞きなさいと諭します(新共同訳)。これは読者の注意を喚起するためであり、原語ではさあ進み続けようというような意味になっています。特にこの例話は、財政的に富んでいる者や、信仰的に自分には何不足はないと思い込んでいる者に向けられています。これは「神から離れ、神の価値観ではなく、自分たちの生き方をしようとするこの世の人々を戒めている。」[7] その例話とは、ある人が今日か明日、どこかの町へ旅をし、そこで1年間過ごして商売し、儲けようと考えることです。興味深いことに、「旅商人や貿易商人たちは、初期キリスト教宣教の成功の主力であった」[8] ので、ヤコブの読者の中にも該当する人々がいただろうことが推測されます。原語には、将来の計画に安心しきっている人間の心情が表現されています。人間は自分の都合通りになると思い込みやすいものです。「不信者は、神の権威も御力も認めていませんので、あたかも自分が自分を生かしているように考えています。」[9] パウロなどは自分の計画を語る時にも、「主の御心ならば」、という留意点を欠かすことがありません。
14節で、ヤコブは言います。その人は明日のことがわかっていない。というのは、あなたの命はしばらくは現れ、また後に消え去る霧に等しいからだと言うのです。「ヤコブがここで明らかに強調しようとするのは、この地上で与えられているいのちの時間がごく短いことである。」[10] イエス様も倉に財産を蓄えて安心した金持ちの例話を語っていますが(ルカ12:16以下)、そこでも命の不確定さが語られ、命を定めるのは神だとされています。おそらく、この人生の厳粛な事実に反論できる人はいないでしょう。特に、医療設備がほとんどない時代では、このことは誰でも実感として持っていたに違いありません。仏教でいえば、まさに万物流転、諸行無常という事です。「このことをごまかしなく認識することによって、神を恐れる人間にとっては、人生に対する全く別の姿勢とかかわり方とが生じてくる。」[11] この方向転換はまさに悔い改めと言えるでしょう。
そこで、ヤコブは教えます。15節にヤコブの言いたいことが集約されています。つまり、人間の欲望や人間の判断が先行するのではなく、「もし主が欲するならば、わたしたちは生きて、あの事、この事をしよう」、と言いなさいと命じるのです。主に従うことです。これが徹底したら、裁くこともなくなるでしょう。律法の上に立つこともなくなるでしょう。主こそが愛によって律法を完成した方であるからです。ただ、これは自分を殺して神に従うという盲従が推奨されているのではありません。「神はわたしたちの計画の相談相手になってくださるのです。神は生きた人格です。呼べば答えるお方です。」[12] つまり、神の定めとは、無機物的かつ機械的な強制ではなく、神の愛の支配における配慮だという事です。ですから、イエス様は愛の神を信頼し「アバ」と呼び掛け、全権を委ねておられたわけです。
16節で、ヤコブは神に委ねない問題の根源は、読者が高ぶりをもって誇っていることだとします。これがどんな意味なのかは十分には判断できません。おそらく、律法の上に立っているという事でしょうか。一切の誇りは、邪悪なものだとします。この邪悪という言葉はユダヤ教的な観点からは悪魔と同義語です。逆に考えれば、悪魔こそ自分を最終判断者とし、律法の上に立つ者のことではないでしょうか。
最後に17節で、ヤコブは結論をいいます。なすべき良い事を知っていて、それを行わないのが罪なのです。「傲慢を彼ら自身に負わせている簡潔な結語である。」[13] これは格言的な表現であり、「アダムソンはこの句を失われた主の言葉だと理解する。」[14] またここで、罪とは、ギリシア語のハマルティアであり、もともとは的をはずれているということですが、神の御心に背いている状態を示します。ですから、判断力がなくて、つまり「刑事責任能力」がなくて過ちを犯すことは、この世の刑法でも裁かれません。反対に、ヤコブの読者のように、神の律法を知っているのに、それを行わないのが罪なのです。イエス様も例話でこのように語っています、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭うたれる。」(ルカ12:47)この罪の意識を抜きにしたキリスト教は単なる博愛の宗教に変節してしまうでしょう。さらに言えば、罪の意識が確立することで、救い主への信仰が生じるのです。回心したパウロも律法と愛との相互関係について深く理解し、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)、と述べています。それを、疑似パウロ主義者たちに、ヤコブは言いたかったのでしょう。
[1] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、203頁
[2] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、117頁
[3] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、163頁
[4] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、164頁
[5] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、139頁
[6] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、137頁
[7] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、179頁
[8] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、206頁
[9] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、94頁
[10] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、181頁
[11] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、78頁
[12] 前掲、 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、182頁
[13] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、123頁
[14] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、168頁