聖書研究

金持ちは泣きたいだけ泣きなさいというヤコブ

ヤコブの手紙5章1節 -6節    文責 中川俊介

ここで、ヤコブの語調が変わって、1節では、金持ちたちは泣きたいだけ大声で泣きなさいと命じます。「金銭を愛する生活をしてはならないと、聖霊は使徒パウロを通して警告しておられます。」[1] 人間がどうしてもそのようになりやすいからでしょう。それは、前段にあった旅商人たちの愚かな計画にも関係あると思います。その愚かな計画さえも、誰にでも起こりうる事柄です。そこで、自分の余命の少なさと、無力を覚えて泣きなさいという事でしょうか。「ヤコブは、預言者的罪の宣告へと突然に移行して、富む人々を襲う災いを知らせる。」[2] つまり、金持ちが遭遇する大災難があるとします。それは、ヤコブの手紙の読者とどのような関係があったのでしょうか。

ヤコブの告発は2節でも続きます。金持ちの富は腐り、着物は虫に食われるだろうというのです。物資の有限性と、神の永遠性を対比しているわけです。「ここには神の裁きを覚えて悔い改めるようにとの勧めは見られず、邪悪な者の断罪があらわれている。」[3] つまり、当時の社会悪の問題性をつきつめ、神の最終的な審判を語ることによって、教会に集う弱者への励まし富んだ者への警告としたのでしょう。ヤコブのメッセージが空論に終わらず、現実の社会での信仰の実践の点で一貫しているのは素晴らしい事だと思います。わたしたちも、わたしたちの時代における、神の要請と、神の慰めを語り継いでいく必要を感じます。おそらく、それが信仰に生きるということなのでしょう。

次に、3節ではさらに厳しい指摘となり、ヤコブは金持ちの金と銀は錆びるとまで言います。普通に考えたら、金などは錆びない貴金属ですが、純粋でないものは、やはり、ある程度酸化するのでしょう。それに加え、ここでは「錆びる」という動詞が完了形になっていますので、これからどうかなるのではなく、既に錆び切っているという意味になっています。「黄金は用いられねばならなかったのに、使わずにある。」[4] これを、象徴的に「錆びる」と考えると、大変に理解しやすいものです。そういえば、イエス様の譬えの中にも、主人から預かった金を用いないで隠し持っていた僕が叱られた話がありました。神が与えた富、それが金銭であろうと健康であろうと、それを隣人愛のために用いないのは罪であり、錆なのです。既に、旧約時代の外典であるシラ書(紀元前2世紀に成立)にお金を隣人のために用いないで、石の下で錆びさせてはいけないと教えられていました。そして、それらの錆び(罪)の毒が金持ちに対する証しとなるでしょうと宣告します。証しとは、ギリシア語もマルトゥリオンが用いられており、これは殉教者としての意味もあるので、逆の意味での、悪の殉教者となることをヤコブは皮肉を込めて言っているのではないでしょうか。つまり、自分の過ちによって自分自身が滅びるとヤコブは忠告しているのです。その過ちとは、自分の考えが、神の同意なしに実現するという思い上がりの事ではないでしょうか。これは、霊的に生きない限り、誰にでも起こりうる過ちだといえます。使徒言行録を読んでみても、初代教会の使徒たちの間で、こうした点における論争があった事がみてとれます。「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」(使徒21:14)さて、わたしたちはどうでしょうか。また、その毒は、あなたがたの肉を火で焼き尽くすといいます。「これはエルサレム包囲より数年前に書かれたものである。」[5] ですから、ヤコブの言葉は一種の預言だったとも考えられます。そして、あなた方は終末の時に滅びの宝を蓄えたというのです。つまり、時が終わろうとしているのに、あたかも終わりがないかのように宝を貯蓄するという愚かな行動に出たというのです。

4節をみますと、あたかも社会主義者の言葉のような表現が見られます。逆に考えれば、後代の社会主義者たちが聖書のこの言葉を引用したとも考えられます。そして、金持ちの土地で刈り入れをした労働者たちの搾取された賃金は叫び、そして刈り入れをした人々の叫びは万軍の主の耳に入ったと告発します。「この点を突かれれば、彼らといえども、なにはともあれ知らん顔をきめこむわけにはいかなかったのだ。」[6] 当時の雇用関係はどのようであったか定かではありませんが、過酷な搾取もあったことでしょう。ここでは、欺き取るという表現になっています。人権の無視とも言えます。「隣人愛は無関係であった。」[7] ただ、それだけではなく、搾取された人々の苦悩の叫びが天の神の耳に入ったというのです。これは、出エジプト記にある、民の苦悩に似ています。「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」(出エジプト2:23)おそらく、このような表現がユダヤ人の社会では慣例となっていたのでしょう。「紀元1世紀のパレスチナ、特に紀元70年以前には、少数の非常に裕福な地主たちの手によって土地が支配されるというケースが増えていた。」[8] ですから、弱者の叫びを聞いて下さる神の愛が示されています。ヤコブはそれを敷衍して、ユダヤ人でもない搾取された一般の農村労働者について語ったのです。また、万軍とは、ヘブライ語のザバオットがそのままギリシア語訳になっており、ヤコブがヘブライ語の大軍勢を示している事にはそれなりの理由があると思われます。「万軍の主という称号は、力強く、戦いに励み、介入して御自分の民を解放する準備のある、神を表している。」[9] 前にもふれましたが、ヤコブの手紙の読者の中に、ユダヤ教の伝統を理解したものが多くいたことは間違いないでしょう。困窮者の叫びが、万軍の主なる神の耳に入るということは、次の段階で、神の裁きを引き起こすことです。「こうした裁きを語ることによって、ヤコブは読者たちに彼らの苦境が無視されていないことを伝え、良き知らせを期待させたのである。」[10] ヤコブはなにも脅かすためにこのような表現をとっているわけではないでしょうが、神の前の平等が実現されることを彼は願っていたと思われます。「その点においては、ただ邪悪な者たちの生活に罪があるばかりでなく、公の職務を遂行するさいにあまりにも不精不精で、生気がないものの生活もそうである。」[11] つまり、ここでわたしたちは二千年前の富者に憤りを覚えるだけでなく、現在の生活の中でこの教えを敷衍して考える必要があるのです。自分はどのように神の愛の教えを実践しているかを己に問うことです。「多くの人の場合に、自己の利害得失が彼らの良心と社会的責任の声を沈黙させてきたのである。」[12] ですから、自己の利害得失を第一にするところに、罪の根源があると言えます。「新約聖書では、少なくとも裕福者たちが責められている時は必ずと言っていいほど、富の『誤った用い方』に原因がある。」[13] 逆に、自己の利害得失から解放されるところに、救いがあると言えるでしょう。これは、罪の自覚と、救い主イエス・キリストへの信仰なしには不可能なことです。

5節で、ヤコブはこの告発をさらに続けます。金持ちは地上で贅沢に暮らし、酒色におぼれたといいます。そして、屠殺の日に自分の心を肥やしたというのです。つまり、自分では安心の財を積み重ねているようであっても、実は、それは罪であって最後の裁きに向けて不幸を蓄積していることに無自覚なのだと言うのです。わたしたちは、むしろ、他者の幸せのために富を活用すべきです。ちなみに、聖書的には不義は富であり、義は貧しさと解釈されます。屠殺される動物を十分に肥やしてから殺すように、神はこれらの金持ちを勝手な行動をするにまかせて、後で滅ぼすということでしょう。イエス様の語った貧乏人ラザロと金持ちの死後の対比と同じでしょう。どんなに金持ちでも、老化と病と死には勝てません。「病気とは、人間の限界を知らせるものです。その果ては死です。死は人間に限界を知らせ、人間が有限なものであることを教えるものです。」[14]

6節を見ますと、彼らが義人(おそらく、イエス・キリスト)を殺したが、義人は彼らに反抗しなかったというのです。これは、十字架の事を述べているのでしょうか。「この『正しい御方』には冠詞がついています。それは、ある特定の正しい御方を意味しています。それは、主イエス以外にありません。」[15] ただし、反対の見方もあります。「定冠詞のついた単数形の『義人』という語は、いわゆる総称名詞として義人一般を指している。」[16] それはともかく、「読者は、苦難の義人に反映される聴衆自身の運命を見ることができた。」[17]これは、過去の事と、当時の社会的矛盾が混在していて、理解の難しい箇所です。「ヤコブの手紙の主題は貧者と富者ではなく、行う者と聞く者であり、その限りで貧者と富者が話題なのである。」[18] 確かにその通りです。美辞麗句ではなく、質実な愛の実践をヤコブ書は教えています。義人とは神の御意志に従う者であり、その意味で、愛の実践者なのです。注意して見ると、ここで、ヤコブが神と離れた行いを教えているのではなく信仰に基づいた愛の実践を説いていることがわかります。難解だからこそ、ヤコブ書が正典に入れられるのに数世紀かかったのでしょう。だから、ヤコブが教えるのは義人の生き方なのです。そして義人とは繰り返しになりますが、神の愛の御心を無心に行う者なのです。その中に、義人の殉教も入ってくるでしょう。それにしても、神の愛におけるこの世の平等や、搾取に対する反論、そして隣人愛の実践は2千年を経た現代でも大きな課題だと言えるでしょう。わたしたちも大いに悔い改める必要を感じずにはおられない部分です。「もしどのような人でも、基本的な物資、食料、衣服、お金を、朽ち果てていくほどたくさん持っているならば、その人は持っている物が必要でないばかりか楽しむことさえできないのである。」[19] ですから、神が与えた富とは、個人より、より大きな社会共同体、御国のためにあるのだと考えられます。神の与えたゴールドを腐食させているのは申し訳ないことです。愛の実践を心がけたいものです。

[1] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、98頁

[2]  P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、208頁

[3]  R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、175頁

[4]  E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、146頁

[5]  ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、125頁

[6]  シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、83頁

[7] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、145頁

[8]  D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、191頁

[9] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、146頁

[10] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、178頁

[11] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、127頁

[12]  前掲、シュナイダー、「公同書簡」、83頁

[13]  前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、187頁

[14] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、189頁

[15]  前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、102頁

[16]  前掲、シュナイダー、「公同書簡」、86頁

[17]  P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、209頁

[18] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、148頁

[19] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、210頁

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