ヤコブの手紙5章7節 -11節 文責 中川俊介
7節で、ヤコブは再び「兄弟たち」と愛情をもって呼びかけています。「前の段落は、富む人々の裁きが近いと言っているように見えた。今ヤコブは、キリスト者の聴衆の方に向き直り、主の到来までの忍耐を勧める。」[1] そして、現在の苦境を再臨まで耐え忍びなさいと勧めています。おそらく、ヤコブの心の中では、キリストの再臨が近いという意識があったのでしょう。こうした再臨待望の考えは、新約聖書の色々な箇所に見受けられます(ヘブライ10:35以下参照)。その頃から、既に二千年近くたった今では、再臨信仰をどのように考えたらよいのでしょうか。確かに再臨はあるのですが、それがいつなのかを、わたしたちは判断することができません。再臨思想は間違いだったと考える学者もいるようですが、どうなのでしょうか。「われわれの今生きている時代が人類の歴史の中で最後になる可能性もある。」[2] それにしても、その時代に様々な抑圧で苦しむ人々に、ヤコブが再臨を一つの区切りとして、それまで頑張ればあとは心配ないと慰めたということは確かです。さらに、ここでは、新共同訳には訳出されていませんが、「ですから」という接続語が用いられていて、ヤコブ自身がこれを一つの結論として提示していることが読み取れます。「この語で、ヤコブは前の部分を再度強調し結論づけている。」[3] 人間の苦の世界から、神の再臨後の秩序ある世界へと、一種の横超を示唆しているのです。「しかし彼らの状況は望みなきにあらず。すなわち彼らには、すべての困苦や患難を償って余りある将来が約束されているからである。」[4]
またここで、忍耐と訳されている言葉は、ギリシア語のマクロテオウであり、マクロス(遙かに離れた)の類語です。ですから、その意味は長い期間忍耐して待ち望むという事です。時間の経過が背景にあります。その一つとして、ヤコブは収穫を待つ農夫を模範例として述べます。それによると、農夫は、貴重な実りを待ち望んで、秋の雨と春の雨を待つというのです。「種まきののち、先にくる雨、収穫が近づいたころの、後の雨。」[5] 降雨量の少ない地域では、農夫たちは首を長くして雨が降るのを待ち望んでいたことでしょう。彼らは自分でそれを長くすることも短くすることもできないのを知っています。あくまで、神の時を待つのです。だから、農夫が信仰の模範としてあげられているのです。ちなみに、この「待ち望む」ということは感謝して受け取るという言葉の意味ですから、自分で作り出すものでも、努力の結果でもなく、神の恵みの雨を待ち望むという事になります。つまり、待ち望む中にも、自分の期待ではなく、神の時を希求するという意味なのです。その点において、再臨も同じように神の実りの時として待ち望むわけです。「神を信じキリストを待ち望む者たちは、焦ってはならない。」[6]
8節にも、耐え忍ぶという言葉が見られます。そして、心がぐらつかないように堅固にしなさいと勧めます。「だから、反対者を引っつかんで排除する権利を行使したり、人間的、世俗的方法を使ったりしない。これを以て自分が教会の指導権を獲得したりしないのである。」[7] 逆に言えば、人の心はゆらぎやすいものです。そして、励ますようにヤコブは、主の再臨は近いと言います。
9節で、ヤコブは再び兄弟たちよと呼び掛けて、互いに不平を言い合わないように勧めます。「クリスチャンは、お互いに愛し合うように召されています。」[8] ここでの、不平とは、うめくとか苦しみもだえるという意味ですから、積極的かつ攻撃的に他の教会員を批判するのとはちがうようです。小さな不平のつぶやきのようなものでも、ヤコブはそれを禁じているわけです。「自分を中心に据える祈りと教会生活は、愚痴と言い合い、何らかの復讐と自己義認を求める叫びとなって消えさる。」[9] それを避けなければいけない理由は、審判者がドアの前に立ち、まさに裁こうとしているからです。「不平の原因は、裁きについての不確かさに結びつけられているだろう。」[10] 裁きは必ずおこなわれるということが、心に刻まれれば、誰もあえて禁止事項を破ろうとはしないでしょう。前の描写もそうでしたが、ヤコブは非常にビジュアルな表現を提示して読者を納得させようとします。この場合には、どこか遠くにいる裁き手ではなく、ごく身近な場で裁かれるという緊急性を表しています。ヤコブは、脅かしているのではなく、さばかれないようになってほしいという願いからこの言葉が出ているのです。「ここでの主要な論拠は、間近かな主の再臨である。これが心を強め、自己自身が強められる。」[11] 兄弟姉妹への愛情と同時に神の裁きに対する畏敬の念が感じられる部分です。だから、道徳ではなく、神との関係において他人を責めてはいけないのです。イエス様も、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:22)、と教えられたのです。
10節にも兄弟たちという呼び掛けが見られます。それも、わたしの兄弟たちと親しく語っています。この部分も、忍耐に関してですが、今度は、主の名によって語った預言者たちを忍耐と苦難を忍ぶお手本にしなさいと勧めます。「ヤハウェの伝道者たちは主に仕えるがゆえに苦難に遭遇するように定められている。」[12] ここだけみても、キリスト教徒であるだけでも、相当な困難の中に置かれたことが推察されます。信じることは迫害を忍ぶことでもあったのです。信仰の代償が大きかった時代でした。現代でも、北朝鮮や、回教が中心のアラブ諸国では、信じることに犠牲が伴います。それだけみても、キリスト教が御利益宗教とは違った内容であると痛感させられます。しかし、現代日本でキリスト教信仰を持つことに犠牲が伴うならば、どれだけの人々が信仰を維持できるでしょうか。その点では、度重なる迫害を乗り越えた日本のキリシタンの歴史に学ぶことが出来るかも知れません。
さて、11節になると語調が変わります。耐え忍んだ人は幸いであるというのです。これはマタイの福音書5章の山上の垂訓にある幸いな者という表現と同じです。おそらく、ヤコブも主イエスのこの言葉を意識していたことでしょう。そして、あなた方はヨブの忍耐を聞きましたとあります。「ヨブが受けた苦難は、神の認可の下でのサタンからの『いじめ』でした。」[13] 苦難も神の認可なしにはあり得ないことを、わたしたちは謙虚に認めなければなりません。それにしても、ヨブ記を読んだのならわかりますが、何故ここでは聞きましたとなっているのでしょうか。「それはユダヤ教の会堂での聖書朗読から来ている。」[14] それに、ヨブに関する説教を聞いたのかもしれません。そして、主にある結末を見ましたとあります。「ヨブの生涯をたどることにより、読者はヨブの経験した苦しみの背景には目的があった事を正しく認識するだろう。」[15] 最後に、主は憐みに満ち、とあります。ここで最初の「憐みに満ち」ですが、これはヘブライ思想の深い感情を宿す内臓から生じる同情と、ギリシア語の接頭語であるポルス(多量の)の合成語になっていて興味深いものです。特にこうした憐みは、イエス様が困難にある者に対して感じたことが福音書の中で表現されています。日本でも、「腹の底から」、「腹立たしい」、「腹黒い」、などの身体的表現があります。さらに、もう一つの「慈悲深い」ですが、これもヘブライ思想の影響の濃い言葉であり、家という思想を根源としています。旧約聖書では、神の家とか、ダビデの家などの血縁を示し、肉親としての深い情愛を表しています。つまり、ヤコブはこのように、苦しみを耐え忍んだ人々を、主はわが身が切り裂かれるかのように共に痛んでくださり、同じ血を受ける者として憐れんでくださるから心配いらないと言って励ましたのです。端的に言えば、この励ましは、知的あるいは表面的なものではなく、肉体を共にし、血族を共にする共感なのです。「そこから、神は憐み豊かであられる、神は同情して下さると分かるはずである。それによって、神は心底、試みはなされないのだとほのめかされている。」[16] わたしたちが学ぶことの多い内容です。それは、ヘブライ思想における神の存在に光を投じ、ひいてはイエス様が告げた神の愛の理解を助けるものです。
[1] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、210頁
[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、199頁
[3] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、189頁
[4] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、88頁
[5] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、131頁
[6] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、89頁
[7] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、150頁
[8] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、105頁
[9] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、153頁
[10] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、211頁
[11] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、153頁
[12] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、193頁
[13] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、107頁
[14] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、194頁
[15] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、195頁
[16] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、155頁