こんなご時世なので、高校時代に購入した方丈記を読んでいます。あのころにはまともに読んでおらず、受験ための教本にすぎなかったのですが、改めて読んでみると心にズーンときました。皆さんにもオススメです。方丈記は徒然草とともに中世の代表的随筆作品です。その一貫した思想が高い評価を受けています。800年ほど前に書かれたものですが、人間の気持ちは同じだと改めて思いました。では、時空を超えて、故人が語りかけてくれるストーリーに耳を傾けましょう。
鴨長明は、彼の時代の悲惨な社会現象、つまり大火、地震、大風、遷都、飢餓などについて、自己の体験に基づいて詳しく書いています。その中で特に印象深い一文を紹介したいと思います。「また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ」、というでだしの文では、愛情深い者が、決して別れたくない愛する者を救おうとして、必ず先に死ぬと書いています。それは、自分の身を犠牲にして乏しい食べ物を相手に与えるからです。わたしたちの犯した罪の贖いのために、イエス・キリストが身代わりとなって、自分の血を流してくださった十字架のようにも思えます。人間だけではありません。これに似た現象を埼玉県の小さな動物園で見たことがあります。檻の中にニワトリが五六羽、飼われていました。飼育員が十分に餌をあげていなかったのか、ニワトリは飢えていました。餌を投げ入れると我先に取ろうとします。しかし、その中で群れに加わらないオスのニワトリが一羽だけいて、闘鶏のような立派な体格をしていました。その鳥が食べようとしないので、目の前に餌を投げ入れてあげました。すると、世にも不思議な光景が展開したのです。この雄鶏は自分の目の前に落ちた餌を、嘴で横に払ってメス鶏の群れに与えたのです。メス鶏たちはこの大きなオス鶏を恐れて自分たちから餌を奪ったりはしませんでした。オスの方があげたのです。これは、何かの間違いかなと思って、再度、餌を投げ入れてみました。すると、また同じように目の前の餌をメス鶏たちに与えたのです。自己犠牲の精神を、鶏が持っていることを始めて知りました。天地創造の不思議を見る思いでした。方丈記にもどると、鴨長明が見たのはまさに瀕死の人々の中の愛だったのです。心を打たれます。また、文の最後のところで、「母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸いつつ臥せたるもありけり」(母が死んでしまったのも知らないで、なおも乳房に吸いついて眠っている幼子もいた)、などと書書かれています。辛いけど、「いとあはれ」(深く強い感嘆、哀悼、憐憫の情を惹起する)、なのです。高校生の頃は、文法とか単語の学習が中心で、神様が日本文化の中に植え付けて下さった絶対愛の表象でもある「あはれ」について、考察することはできませんでした。でも。まだこの本を持っていてラッキーでした。