印西インターネット教会

ヤコブの手紙の現代的意義

今回から読者のみなさんと「ヤコブの手紙」を学びたいと思います。わたしの出身教会はルター派の教会であり、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」というのが信条中の基本とされてきました。多くのプロテスタント教会もこの線を堅持していると思います。わたしは今でもその正当性を疑いませんが、あの宗教改革当時には、ルターもキプリアヌスのように「教の外に救いなし」と言えなかったのかなと思います。それはそうと、あくまで福音主義に立つルター自身は、信仰よりは行いや律法を強調しているようにみえやすい「ヤコブの手紙」は正典にふさわしくないと考えたのです。手短に言えば、グッドバイ・ヤコブ書だった訳です。「宗教改革の時代は新約聖書の正典の範囲について再び論じられた時代であった。ルターはその再審議に最も責任のある指導者であった。」[1] この小さな聖書研究で正典云々を議論することはまったく不可能ですが、少なくとも、律法と福音とは相反するものではないことは確かだと思います。なぜなら、律法によって「服従を要求したのは恩寵の神であった。旧約聖書は神の要求と恩寵の両方を共に語っている。同じように新約聖書も神の意志に対する徹底的な服従を要求することを記憶しなければならない。それもまた恩寵と倫理的要求とを共に含んでいる。」[2] ですから、わたしたちはパウロの書簡が恩寵の面を強調していると認めつつ、ユダヤ人信徒を対象とした「ヤコブの手紙」は同じ硬貨の裏の面である倫理的要求を強調していると考えてもよいのではないでしょうか。そのことを覚えつつ、現代の教会が直面している課題に取り組みつつ、救いに至る道をわたしたちに与える糧として「ヤコブの手紙」を学びたいものです。

さて、1節の冒頭の言葉をみましょう。パウロ書簡の冒頭には、自分がキリスト・イエスの使徒であるとか、僕であるという表現が一般的に見られます。「ヤコブの手紙」では、それが、「神と主イエス・キリストの僕」となっています。特に神の事が強調されているのは他の書簡にはあまり見られないことです。類似しているのは「テトスへの手紙」の冒頭であり、そこには「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから」(テトス1:1)となっています。また、参考にしたいのは、「ユダの手紙」で、「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから」(ユダ1節)、となっていて、この手紙が 「ヤコブの手紙」と同時代のものであることを印象付けようとしています。ここで僕という言葉は、謙虚さを示すだけではなく、「著者はこの用語に自分の回状を結び付けて、これに預言者的体裁を持たせたのである。」[3] そして、この手紙の筆者が、初代エルサレム教会のリーダーであることの権威を示しています。しかし、「ヤコブの手紙」には、自分がイエス様の兄弟である

[1] F. フィルソン「聖書正典の研究」、日本基督教団出版局、1969年、8頁

[2] 前掲、F. フィルソン「聖書正典の研究」、8頁

[3] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、42頁

というような直接的な表現はみられません。また、原文のようなギリシア語をガリラヤ出身のヤコブが書けたとは思われません。ですから、著者がイエス様の兄弟であるかどうかは別として、おそらく、何かしらの権威の所在を示す手紙として、これは初代教会で用いられたものでしょう。しかし、「ヤコブの手紙」が正典に入れられたのは、新約聖書の中の他の文献と比べると、一番遅い時代の4世紀になってからでした。

続く1節の後半部分は、理解しにくいものです。ヤコブが挨拶しているのは、地方の教会ではなく、離散している(ディアスポラ)の12部族だというのです。勿論、この時代に12部族は既に存在しなかったのですが、ヤコブは旧約聖書が12部族に託している終末的な希望を示唆しているとも考えられます。「ここから筆者がキリスト者の教会を全面的にユダヤ人社会の延長線上にあるものと見ていると結論しても差し支えない。」[1] ディアスポラとは、パレスチナ地方以外の外国に散在するユダヤ人をさしています。「イエスを信じる当時のユダヤ人信徒は、新しいイスラエルと呼ばれていた。」[2] こうして、世界各地に散在するユダヤ人はパレスチナにいる本国のユダヤ人の数十倍にもなり、各地で彼らの共同体を維持したそうです。そして、初代教会の伝道が、そうした散在するユダヤ人の共同体を基盤として広がっていったことも事実です。ですから、「ヤコブの手紙」はこうした人々を対象として、教会内の秩序の維持と、福音の流布を考えていたことは明らかですが、ユダヤ人信徒は既に律法の教えは熟知していたわけですから、ヤコブはより広範な読者を念頭に置いていたとも考えられます。また、ここでの「挨拶」という言葉には「喜ぶ」という意味もあり、パウロは「フィリピ信徒への手紙」では、これを「喜びなさい」という命令形で何度か用いています。であるとすると、著者のヤコブは、世界各地に散在するディアスポラの教会に所属するユダヤ人信徒に、喜びをもって挨拶しているということになります。そして、ヤコブは自分が使徒であるとは言いませんが、「神と主イエス・キリストの僕」なのですから、十分な権威を有すると示しているわけです。そうした背景もあって、内容的には律法的であっても、イエス様は律法を廃止するために来たわけではありませんし、律法からアプローチした方がユダヤ人信徒にはよく理解できたでしょうから、この方法を用いたとも考えらえます。「ヤコブはパウロとは違った体質を持っていた。彼は違った問題に直面していたのであり、パウロの鍵語をパウロとは異なった状況の中で使用したのである。」[3]

2節には、1節と関連する「喜び」という言葉がでてきます。「著者と読者の関係は、しばしば『兄弟たち』という呼びかけが用いられていることからわかるように、親密なものである。」[4] この場合、同じ信仰に立つ兄弟への単なる挨拶ではなく、試練の中にある人々に対して絶えず「喜び」を中心に据えなさいという励ましを込めた言葉だと思います。「苦

[1] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、43頁

[2] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、8頁

[3] 前掲、F. フィルソン「聖書正典の研究」、41頁

[4] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、14頁

難はこの選び取った善き道を前進していることの目印であり激励であり、喜びの理由なのです。」[1] そして、この場合には、試練というのは抽象的な意味ではなく、丁度、落とし穴に落ち込むように、逃げられない状態に遭遇する場面としてビジュアルに描かれています。ですから、実際に世界各地に散在するユダヤ人は、そうした問題に直面していたし、それに対する第一の処方箋は、問題の除去ではなく、「喜び」だということです。わたしたちの日常でも、健康や人間関係、経済などの様々な問題に遭遇しますが、それに対して「喜び」を持つことができたら、問題は既に解決しているといっても過言ではないでしょう。「フィリピ信徒への手紙」でも、パウロは、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)、と書いています。

3節では、このことがさらに詳しく説明されます。ヤコブによれば、試練とは「あなたの信仰の実証テスト」だというのです。この言葉には金銀の精錬という意味もあり、それはユダヤ教の中でも教えられてきたことです。「忍耐というのは受動的な堅忍をしめすだけではなく、積極的に信頼する要素をもあらわす。」[2] ですから、これからどうこう、ということではなく、すでに起こっている数々の試練の中で、「あなたがたは不動のものとして強められ、純化されている」だから「喜びなさい」という福音的な知らせが告知されていると考えられます。ですから、ヤコブはそうしたユダヤ教の伝統も活用して教えていると思われます。「わたしたちは、わたしたちの信仰におけるユダヤ人の遺産に耳を傾ける必要がある。」[3]

4節では、上記の事だけでは十分でないと述べられています。忍耐に、あらゆる部分において何不足ない成長を加えなさい、という命令です。「信仰は生の中にその完成と仕上げがあると言われているのである。」[4] あらゆる面における究極的な成長が奨励されています。「クリスチャンの完全性こそが、ヤコブの基本的な関心事である。」[5] まさに、神の命を宿して成長していくということでしょう。新共同訳では、「何一つ欠けたところのない人になります」となっていますが、原典では特に人という言葉は用いられていません。ここで、人が強調されてしまうと、段階的な聖化を目指すように受け止められるおそれもあります。むしろ、ここで考えるべきは、個人の努力目標ではなく、終末において神が信仰者に与える恵みとしての完成ではないでしょうか。

続いて5節を見てみましょう。ここでも、4節と同じように、原典では「しかし」という言葉が先行し、ここでは「あなたがた」という人称名詞が用いられています。そして、知恵に不足があるなら、神に求めなさいというのです。「忍耐は修練すべきものであり、知恵は願い求めるべきものである。」[6] 特にユダヤ人の意識では、この知恵とはギリシア的

[1] 前掲、F. フィルソン「聖書正典の研究」、47頁

[2] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、15頁

[3] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、156頁

[4] 前掲、F. フィルソン「聖書正典の研究」、53頁

[5] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、69頁

[6] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、24頁

な人間知識の集積や哲学ではなく、神の意志を知る洞察力の事です。ですから、わかりやすく考えると、試練の中で迷い、神の御心を判断できないで苦しむ者がいるならば、すべてを惜しみなく与えて下さる神に神意を尋ねなさいというのです。「神は唯一の混じり気のない善の源泉である。」[1] この点はイエス様も常に教えていたことです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:11)ヤコブも、そうすればその人に惜しげもなく与えられると述べています。この「惜しげもなく」という言葉は、新約聖書ではここだけで用いられています。「人間はしばしば、助けを求めている人々になんらかの過ちがあるかのような非難の要素を添えて援助をする。」[2] しかし、ヤコブの思想に示されているのは、神は咎めることなく与えることを喜びとされるというイエス様の使信との親和性です。「神は善きものを賜うさいに、我々の過去における愚かしさと無価値を、また将来における神の賜物の濫用を咎め給わない。」[3] これも神の愛のしるしではないでしょうか。

6節では、再び、「しかし」という言葉が文頭に現れます。これも単なる偶然ではなさそうです。ここでは、前節の「求めなさい」(アイテオー)という言葉を否定しています。つまり、単なる願いではないのだということです。アイテオーという言葉は、告訴とか請求という意味を語源としていますから、当然の権利として相手方に堂々と請求してよいということです。これは、前節の内容の否定ではなく、むしろ強調であり、前節は前前節の強調でした。であるとすると、6節は3節に始まる試練、そして喜び、成長、神への願い、そして信仰という順でまとまっていると考えられます。ヤコブが、イエス様と同じように人間の努力や功績ではなく、父なる神への絶対的な信仰をこの手紙の冒頭に置いていることは明らかです。

そして、6節後半では、躊躇する人(新共同訳では疑う者)は風に吹かれて揺れ動く海の荒波に似ていると書かれています。ここでは、信仰が主題ですから、当然、信仰の反意語として疑いが出て来るわけです。しかし、注意して見ると信仰の対極は必ずしも疑いではありません。実際に、バルバロ訳では「迷う人」、となっていて原典に従って訳されています。もともと、「疑う」と訳されるディアクリノーという言葉は、ディア(通して、媒介として)クリノー(判断、分別)という二つの言葉による合成語ですから、そこで意味されていることは、人間的な分別を通して決めようとするから迷ってしまうという意味です。これは信仰と正反対の態度だとヤコブは説いているのです。試練の中に置かれたユダヤ人信徒たちは、ある程度神への信仰を持っていながらも、その時々の人生の強風にさらされて、自分の判断に迷い右往左往していたということでしょう。ですから、ここで、ヤコブは彼らの姿を、嵐に揺れ動く海の波という、とてもビジュアルな表現で相手に伝え、彼らに自分たちの姿を自覚するように、愛をもって諭しています。

[1] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、57頁

[2] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、162頁

[3] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、24頁

7節で、ヤコブは、そのように「迷い、躊躇する」人は、主から何かを受け取ることができると期待してはいけないと言います。信仰をもって求めていないので、何も与えられないのです。

さらに8節では、そのような人の事を、「魂が二つに分かれた」人であり、すべての生活において無秩序であると戒めます。「その分裂した人間は実際には多神教信者である。」[1] ですから、ヤコブは、揺り動かされない信仰に立って、愛の唯一神に全幅の信頼をよせることを、試練にさらされている異国のユダヤ人信徒に奨励したのです。「著者ヤコブのこうした信仰の捉え方は、イエスのそれに近いということができる。なぜならイエス御自身、神の支配に服して、これを信じ受けるものは、神の御心を行わねばならないことを、要求しておられるからである。」[2] 「ヤコブの手紙」が説く、イエス様のような愛の絶対唯一神への信仰は、人間の分別が先行して、判断に迷う現代のわたしたちにとっても大切な示唆であるといえるでしょう。

 

[1] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、60頁

[2] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、12頁

モバイルバージョンを終了