今週の説教

立春を迎える時に読みたい説教

「春の雨、赦しは神にあり」     ルカ6:37-49

イエス様は人を裁いてはいけないと教えました。つまり、裁くなとは特定の人を悪い人だと決めつけてはいけないという意味です。決めつけないだけでは消極的な態度ですが、イエス様は人間関係でもっと積極的に生きるように教えました。それは、自分を守ろうとするのではなく、自分の持っているものを積極的に与えていく態度です。物質的なものだけでなく、他者に自分の助けも与えることが出来ます。そうです。わたしたちも与えることを学んで実践すれば、イエス様のようになれると教えられています。その時に、傲慢になってはいけないですね。自分の欠点を第一に考えることです。他人の欠点をあまり問題にしないのです。問題にしないとは、赦すという事になります。大げさに考える必要はありません。これを英語では、NO PROBLEM、中国語では没問題といいます。これは、ゆるしであり、人生を積極的に受け入れる態度です。

イエス様の教えが身に着けば、それは良い木がおいしい実を結ぶように、自然に赦しを与えていく実を結ぶのです。そうでない場合には、聞くだけの偽善者になってしまいます。いつもしかめ面で他人の欠点をあげつらうキラワレ者になってしまうのです。それをイエス様は良く知っていました。そうした偽善者にならないためには、イエス様の言葉を聞くことです。そして行うことです。聞くだけではいけません。悔しいことがあっても、イエス様が赦しなさいと教えているのですから、赦しを実行することです。また、自分の持ち分が少ない時にも、必要な人がいたら自分の損得は考えないで与えることです。すると不思議なことが起こります。奇跡というより、自分を守ろうとしてきた不自由さから解放されるのです。そうしたほうが、喜びがあるよとイエス様は教えたのです。そして、イエス様によれば、赦すこと、与えることが出来るようになれば、どんな試練にも揺り動かされない土台を持った人生を送ることができるのです。

わかりやすく考えるために、ビジネスの状況を想定してみてください。コロナ禍にあって、何でもダメだと考えているのは、現状を受け入れていないのです。赦さないのと似ています。また、危険から自分を守ろうとするだけで、他者に助けを与える絶大なチャンスが到来している現在に、手を動かそうとしないのは大きなマイナスです。自然の木々でさえ、厳寒の厳しい環境の中で、春を迎える花芽を準備しています。コロナだって、永遠に続くわけはありません。これまで歴史上、何度も起こった疫病は必ず収束しています。今こそ春に向けて準備するときなのです。

教会の日課はペリコーペ(断片)と呼ばれています。同じテーマに従って、福音書、使徒書、旧約聖書が選ばれています。それが3年周期で繰り返されているわけです。今回の日課は、テーマは、赦しのことです。旧約聖書の日課のエレミヤ書でも、神の言葉を聞いて行動に移すことの大切さが教えられています。ここでは、わたしたちが立派な性格にならなくてはいけないとは教えられていません。それはできないことです。まず、聖書にある神の言葉を聞くことです。そして、それを信じ従うことです。人間を出発点としません。神からのメッセージが出発点なのです。それをイエス様も教えたのです。神をあなたの人生の出発点にしなさい。それなのです。神中心です。神だけが悪を善に変えてくださる方なのです。神だけが、良い実を実らせてくださるというのが、赦し教えの大切な点なのです。それはチョット理解しにくいことです。ここでは全部を説明できないでしょう。ただ、赦しというのは、悪いことをしたけど赦すよ、という次元の意味ではないのです。赦しの反意語は、聖書では、不寛容ではなく、罪だからです。罪とは、宇宙の生命原理の根本である神からの遮断状態です。コロナで家族や友人から隔離されるのに似ています。力を失うのです。わたしたちは食物だけでなく、環境や他者からエネルギーをもらって生きています。それが遮断された状態を罪というのです。「罪の結果は死である」、と聖書は教えます。食べる物もない、支える人々もいない時に、人間は生き続けることができません。遮断されています。悲しいことですが、物質的にどんなに豊かでも、いじめなどで周囲の人々から遮断された人は、生き続けることができません。こうした、罪の遮断作用を、根本から転覆し、救いに変えたのが十字架です。遮断の反対は、与えることだからです。イエス・キリストの十字架は、生命エネルギーの根本である創造主が人類に示した、死をもって死を滅ぼす道、与えることをもって隔離を取り去る道だったのです。ただ、これは、すこし難しいので、いつか機会があったらまた話しましょう。これは贖罪論といいます。伝統的な贖罪論は、法的な弁済論にたっていますが、わたしの考えは少し違います。伝統的は贖罪論には弁証法的な論理が見られず、前近代の科学のように、機械論的な傾向が強いと考えるからです。一方、与えることで、エデンの園の原罪以来、遮断されていた神関係が回復したというのは、アブラハムとイサクの関係にも予兆されていると考えます。

さて、イエス様の赦しの教えですが、これは譬えの話に多く見られます。有名なのは放蕩息子の話です。親の財産の半分を浪費して放蕩の限りをつくして弟が帰って来た時、父親は歓迎しました。それを見た真面目な兄は怒りました。弟が赦せなかったのです。与えることが出来なかったのです。父親は言いました。わたしのものは全部お前のものだ。あの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。つまり、救われたということです。救われた兄弟の事をなお恨んだり、自分の相続分が減るなどと心配してはいけないのです。神の世界の資産は、無尽蔵です。

同じく、イエス様の譬え話で借金の返済の件があります。イエス様が弟子たちに、7回どころか7の70倍赦しなさいと教えたあとで、この譬えを話したのです。王様に1万タラントン、現在では6千億円くらいの借金をして、払えないので憐みを受け帳消しにしてもらったのです。喜んで帰る途中で、自分が100デナリオン(100万円程度)貸していた人を見つけて苦しめ、牢屋にまで入れてしまいました。それを聞いた王様は、憐みのない家来に怒って牢屋に入れてしまったという例話です。その話に出て来る表現の、「わたしがお前にしてやったように、お前もその人にしてあげるべきだった。」という部分が、神の赦しということです。まず神がわたしたちを赦しているのです。与えて下さっているのです。それでも、赦せない人がいます。そういう頭のカタイ人に対しては、「人を裁くな、そうすればあなたがたも裁かれない」と戒めたのです。この教えは、主の祈りにもでており、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとくわれらの罪をもお赦しください」となっています。赦さない者は、自己隔離されていて、命の源泉である創造主から遮断されていますから、既に不幸になっています。既に死んでいるともいえるでしょう。「北斗の拳」には、キリスト教的表現が散見されますが、「お前は既に死んでいる」とはこのことです。環境が悪いのではありません。コロナが悪いのでもありません。神からの遮断、つまり罪、これによって人類は死の方向に墓穴を掘ってしまったのです。解決は、赦ししかありません。

また、歴史の中の赦しの一例として、過去の事例があります。第二次世界大戦後に中国に残された日本人の数は、約660万人だったと言われます。終戦時の日本の人口は7200万人といわれていますから、10人に一人は中国各地に住んでいたのです。ただの十分の一ではなく、最も健康で、最も優秀な若い世代の多くが外国に取り残されたわけです。老人は国内に残っていました。その多くが住んでいたのは満州と呼ばれた中国東北部でした。日本の領地とするために移民を奨励したわけです。ところが、日本は敗戦してしまいました。戦争で敵国に国土を蹂躙され、人民を虐殺された中国人は、日本人に復讐したいと思っていました。それにストップをかけたのは、クリスチャン政治家の蒋介石でした。日本に帰国する人々を手荒く扱ったり迫害するものは厳しく罰する、彼らを赦さなくてはいけないと命じたのです。

江戸末期から、明治に移る際にも、クリスチャンの政治家であった西郷隆盛と、キリスト教に理解の深かった勝海舟が互いに赦し合って、それまでの争いは水に流して、平和に政権交代したので、江戸は荒廃せず、日本は海外の植民地にはなりませんでした。西郷隆盛の、「敬天愛人」の書を見たことがある方もいるでしょう。またわたしは、千葉県で開催された聖書展で、勝海舟自筆のマタイ福音書の一部分を見たこともあります。教科書にはでてこない歴史の背景だと思います。

ですから、戦争に負けた海外の日本人が赦されて、国に戻り、荒廃した国を再建できたのもクリスチャン政治家の赦しの言葉の実践があったからです。もしこれが、言葉だけで実践されなければ、明治時代に日本は植民地になり、第二次世界大戦後には国を再建することは困難だったでしょう。赦しとは、破滅の反対であり、命の原点だといえるでしょう。

「立春や、赦しは神にあり」神様は、冬に春の蕾を成長させています。人生の冬も、希望と命を成長させていただく時なのです。古典的な贖罪論は、イエス様の譬えのように借金の帳消しというという意味です。それはギリシア語ではアフェーケンという言葉で書かれています。逆に、罪とは神に対する、あるいは隣人に対する消すことが出来ない借金のようなものだと、イエス様は強調したのです。ですから、イエス様はすべての人が罪人であり、神の赦し(帳消し)によってのみ生かされているのだと教えたのです。大切なのは、その罪を消すのは、神様の与える絶対愛だけです。

神様は絶対愛だから罪という死の病を癒せるのです。絶対愛とは感情以上のものです。イエス様が今日の日課で教えているように愛は惜しみなく与えることです。与えることが愛です。与えることのない愛は、偽りの愛です。相手から要求する愛も、本当の愛ではありません。逆に死とは、生物学的な生命作用の停止だけではなく、代謝が停止し、古いものが新しいものに己を与えることをやめてしまうことです。生命の根本原理は、与えることです。

一つの面白い例話があります。イスラエルに行くと、二つの湖があります。一つは、北部のガリラヤ湖、もう一つは南部の死海です。ガリラヤ湖は、イエス様の時代からおいしい魚の宝庫です。死海は、文字通り死の湖であって、魚はいません。この二つの違いは何でしょうか。ガリラヤ湖は、上流から流れてきた川の水を受けるだけでなく、下流に流して与えています。一方、死海の方は、上流から流れてきた水を受けるだけで、与えようとはせず、ため込むだけで、塩分が極度に強くなってしまったのです。常に与えるものは、清らかに生き、常に受けるだけのものは、やがて死の世界に入ってしまします。愛は、前者であり、惜しみなく与えることです。

戦後の日本人は、自分たちが生き残った事、罪の肩代わりをしてもらったことに感謝し、国家を再建しました。殺人、略奪、破壊、外国で平和な家庭や幼子を踏みにじった過去が赦されたのです。それは、聖パウロの経験でもありました。パウロはまさに、満州での旧日本軍のように、クリスチャンを迫害していたのです。しかし、彼は悔い改めて赦されました。誰も、パウロに復讐しませんでした。イエス様の十字架の愛とは、罪を帳消しにする神の絶対愛だと信じ、そのように行動したからです。

また、わたしたちも惜しみなく与える愛を持つ人に神様は変えてくださるのです。「春の雨、赦しは神にあり」。冬も終わって、日が長くなり、野山に生命力が戻る以前から、神様は春の準備をして下さっています。雨が降るたびに温かくなります。この雨こそ、イエス様が神様の赦しの例に使ったのです。神様は良い者にも悪い者も愛して恵みの雨を与えて下さるのです。無条件の愛とは、無条件の赦しです。

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