今週の説教

コロナやその他の危険予測に関する説教

「もっと早く知っていれば良かった」   マルコ1:14-20

今回の福音書の箇所はイエス様が洗礼を受けたあと伝道されたことを伝えています。ヨハネが逮捕された時にイエス様は故郷のガリラヤに帰りました。それはイエス様が神から示された道だったと思います。そこに御心というものがあるわけです。この御心を求める姿勢で、典型的なのはアブラハムの決断です。甥のロトの一族との間に牧草地のことで争いが生じたとき、アブラハムはロトにヨルダン川沿いの緑豊かな低地を譲り、自分はカナンの山岳地帯に行きました。(創世記13:10以下)その後、アブラハムはヘブロンに行き主のための祭壇をたてていますから、この選択は彼が自分の欲ではなく神の御心に従ったというしるしだと思います。一方、ロトはどうでしょうか。神の御心ではなく彼が自分の利益のために選んだエデンの園のように豊かな土地は、ソドムという名前の場所であり、やがてロトの家族もそこで滅びることになろうとは、その時の彼は知っていたでしょうか。彼は、誰にでも共通な判断、自分に有利で良い土地を選んだだけだったのです。彼が、その選択の誤りをもっと早く知っていたらどうでしょうか。天から硫黄の燃える火が降って町が全滅すると知っていたら、どう判断したしょうか。皆さんはどう思いますか。

さて、イエス様は常に神の御心を求める人でした。そして、ガリラヤに戻った時に、神の時が満ちたと言い宣教しました。この満ちるというのは、プレローという言葉で、預言が成就するという意味です。救い主の道を整えるヨハネが世に出て、そのあとイエス様がガリラヤで宣教するということが神の御心の成就だとイエス様は理解したわけです。

この預言の成就には3つの意味があります。1つは、救い主がついに地上に現れたことです。第二に、洗礼のヨハネの時が終わって、全く違った歴史の段階に入ったということです。第三に、神の国の到来がイエス様の癒しや、奇跡の働きによって示されたことです。

この特別な時に、人間がなすべきことは、悔い改めでした。悔い改めは、方向転換の意味であり、神のもとに立ち返ることです。ただし、方向転換は難しいことです。東日本大震災はどうでしょうか。もし、津波のことを知っていたら、方向転換できたでしょうか。実は、飯沼勇義という郷土歴史家が「巨大津波が仙台平野を襲う」という本を書いて既に警告していたわけです。御嶽山の噴火はどうでしょうか。気象庁は全く予測していませんでした。しかし、琉球大学の木村政昭名誉教授は噴火を2013年±4年と予測していました。もし、これをもっと早く知っていたら人々は登山をやめたでしょうか。

悔い改めというのは、地震や噴火予知に伴う避難と同じように、死から命の道への転換でもあります。つまり、安全な神の国へ全力で非難する必要を説いているのです。ただ、残念なことに、将来のことは見えるものではありません。信じるだけのものです。だから、早く知っていても、信じる人と信じない人とが分かれるのです。アブラハムは、豊かではあるが、火山活動の危険のあるヨルダン川流域の低地であるソドムを避けました。もっと昔の時代に、ノアは人々が安心仕切っている時に、洪水に備えて方舟を造りました。「ノアは、すべて主が命じたとおりにした」(創世記6:22)とあります。しかし、人々は神に聞く姿勢(つまり悔い改め)を持っていませんでした。

神の素晴らしい王国の良い知らせも、生きることの危険を知っていたら、誰でも信じるでしょうか、目に見える形では見えませんので、信仰でしかわかりません。イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と教えました。その意味は、「このままでは、あなたの人生は滅びてしまう、噴火する火山の前に立つか、押し寄せる津波の前にたっている人のようだ。それではいけない、安全な場所に避難しなさい。神の国に避難しなさい。そして、神の無条件の愛を信じなさい」、というのです。後に滅びた人は、この言葉をもっと早く知っていたらよかったと思ったでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。方向転換するでしょうか。コロナ禍でそれを学んだでしょうか。しかし、危険を知って、方向転換することは実に難しいことです。

さて、次に、福音宣教の結果、イエス様には弟子ができました。その状況の説明が16節以下です。イエス様の最初の4人の弟子たちはみな漁師でした。彼らには聖書の難しい預言はわからなかったでしょう。彼らは滅びゆく世界の危険まで感じてはいなかったでしょう。ですから、イエス様も彼らに難しいことを一切語っていません。「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)、とおっしゃっただけです。それは原語では、さあここに来なさいという優しい呼びかけです。もっと素晴らしい、神の漁師になりなさいという勧めでした。彼らにそのような呼びかけに答えて、舟や生活用具一切を捨てて従ったのです。

さて、船といえばタイタニック号の生存者は711人と言われているのですが、3等船室で家族全員助かったのはキンクさん一家だけでした。船が氷山にぶつかった時に、人々は甲板で氷のかけらでサッカーをして遊んでいたそうです。危険予測が鈍かったのです。キンクさん一家は避難の呼びかけにこたえて最後から2番目の救命ボートで脱出しましたが、そこには40人乗りのボートなのに17人しか載っていなかったそうです。不沈船と呼ばれたタイタニック号は長さ269メートル、乗客数1324、乗組員899、合計2223名の当時の巨大船でした。あの巨大客船タイタニック号が沈むともっと早く知っていたら人々の行動は違っていたでしょう。

弟子たちの生活についてわたしたちにわかることは、彼らが生活の基盤である網を捨ててイエス様に従ったことだけです。彼らはやがて世界を救うほどの働きをしましたが、それは彼らが、勇敢だったとか、宗教的だったからだとは、聖書には一切書いてありません。むしろ逆で、彼らは弱かったのです。その彼らが偉大な仕事を達成できたのは、やはり、イエス様が預言したように、神の国がきて、イエス様が罪の贖いの犠牲として十字架の苦難をうけ、復活して、彼らを聖霊で新しく生まれさせ、「新しい漁師とし」強めたからです。イエス様は預言通り彼らを新しく伝道者にしたのです。

旧約聖書のエレミヤ書16:19にある「我々の先祖が自分のものとしたのは、偽りで、空しく、無益なものであった」、これはわたしたちの一般的な価値観です。危険が迫っていても、氷でサッカーに興じている姿が人間です。汗して方舟を作っているノアの横を無関心に、あるいはあざ笑って通る人々の姿です。わたしたちは、罪のために心が鈍くなっているので、聖霊の助けなしには、危険予測は困難です。聖書はそれをわたしたちに諭しています。わたしたちが自主的に価値観を転換することは不可能だからです。そのために、救い主が来てくださったのだと思います。黙示録に預言されているように、「天は巻物が巻き取られるように消え去る」(黙示録6:14)時が来ます。今は元気なわたしたちも、必ず火葬場で灰となる日が来るのです。そのとき、世は過ぎ去るよと示されるのです。このことをもっと早く知っていたら良かったと痛感する日が必ず来るはずです。そのとき、御国を信じる者は「命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい」(黙示録22:17)という慰めの言葉を聞くことができるでしょう。信じていてよかったと思うはずです。少なくとも、わたしはそのように信じていますし、これまで信仰をもって臨終の時を迎えた者たちはそうでした。

教会には世の終わりを警告する義務があります。また、神の国の福音を告げる伝道の責任があります。誰にでも起こる人生の危険、また誰にでもある、罪の結果としての死を前に、本当の救いを伝えなくてはいけない。インターネット教会もそれを目的としています。多くの人が、もっと早く知っておけば良かったと後悔しないように。今回のコロナで、死という問題を恐れるだけで、救いを考えなかった人は、今からでも危険予測をして、ノアの舟にいれてもらうと良いでしょう。自分というタイタニック号が沈む前に・・・・。

 

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