さすらいのアラム人であったアブラハム
「さすらい」という言葉も最近は死語に近くなり、あてどもなく旅する人は少なくなったようです。それでも、わたしはトム・パクストンという人が作詞・作曲した「RAMBLING BOY」(ランブリング・ボーイ;さまよえる若者)という曲が好きです。これを聞くと、故郷を離れ、あてどもなく、神のおぼしめしに従って未知の土地へと向かったアブラハムのことを想起してしまいます。後代のユダヤ人も、モーセをとおして神からのお告げを聞き、「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありました」(口語訳聖書、申命記26章5節)、と語るように命じられています。ただ、新共同訳聖書では、この「さすらい」が削除されて、「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人」(新共同訳聖書26章5節)となっています。わたしは聖書学者ではありませんが、イスラエルに住んだこともあり、大学で語学を教えている経験もあり、この翻訳は原語を忠実に訳しきれていないと感じられてなりません。何よりも残念なのは、日本人の感性にピッタリくる「さすらい」という言葉が削除されたことです。アブラハムの生涯を要約したら、まさに「さすらい」の一句に尽きるでしょう。日本では、松尾芭蕉や種田山頭火の「さすらい」が心にしみます。原語のヘブライ語では、アラミー(アラム人)アベイド(さまよう)アビー(祖先)となっています。ここのアベイドは英語のアバドン(地獄)の語源ともなっている言葉であり、基本的には希望を失い迷うことです。エデンの園で、神から自分を引き離してしまった人類の、さまよう姿があらわされていると思います。讃美歌239番「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の父を見よや、罪とが悔やめる心こそは、父より与うるたまものなれ」、はわたしの好きな曲の一つです。その歌詞の奥にある神学が素晴らしいと思います。これを作詞した、ウィリアム・ベンゴ・コリヤーは1782年生まれのイギリスの牧師です。ロンドンの小さな教会を発展させ、また、ユダヤ人に福音を伝えることにも熱心でした。当時はユダヤ人を敵対視していたキリスト者が多かったのに、彼は神の愛に立っていました。そして、由緒あるエジンバラ大学からも、神学博士号を贈られています。ウィリアム・ベンゴ・コリヤーも、さまよう人々に愛をもって呼び掛ける人でした。わたしたちが、人生にさまよう時は、まさに「RAMBLING BOY」なのですが、そこにも神は救いの手を差し伸べています。わたし自身は、若いころには、さすらいの旅が夢でした。親元を離れ、家出して一年さすらいました。アメリカで五年学んだ時も、アラスカでインターンの研修をした一年は、さすらいの思い出です。牧師になってからも、一時ルーテル教会を離れて、単立教会をめざして十二年間さすらいました。いまも、さすらいの人アブラハム、この人の背中を見つめながら、神の啓示だけを頼りにさすらっています。「RAMBLING BOY」の最後の部分で、既に天国に行った親友のことが歌われていますが、わたしの前に、人生のさすらいをすでに終えて、この世を去った愛する者たちのことを覚えながら、今日という日をさすらっています。RAMBLING BOY IS ME AND YOU.