キルケゴールの語った「恐れとおののき」の原典
フィリピの信徒への手紙2章12節 –18節 文責 中川俊介
パウロの牧会的な助言は続きます。12節で、パウロは手紙の読者たちに、「わたしの愛する方たちよ」と親愛の情を込めて語りかけます。これは「勧告の口調をやわらげるのに役立っている。」[1] それだけでなく、愛の勧告となっているのです。牧会者としての大切な点でしょう。「パウロは、教会員を結びつける愛をイエスの御業に基礎づけた、このことによって、彼らの愛はさらに服従の義務をもつものとされた。」[2] そして、自分が臨在するときだけではなくいない時も聞き従ってくださいと勧めます。とくに、この「臨在」という言葉はギリシア語のパロウシアであり、パウロがフィリピを再訪するだけでなく、メシアの再臨という終末論的な意味合いを持った言葉です。新共同訳聖書では、単に「共にいる」とだけ訳されています。
また、パウロは続けて、恐れとおののきをもって自分たちの救いを達成してくださいと述べています。この「恐れとおののき」は哲学者のキルケゴールが用いて有名な一句になっています。旧約時代からの慣用句だそうです。それは神の判断困難な問いかけにたいして、自己を主張することを不可能と認め、ただ信仰に生きる難しさを語ったものです。アグラハムとその子イサクの例があります。パウロの場合は少し違う様です。むしろ、肯定的な意味合いで、フィリピ教会の信徒に語りかけています。少し詳しく見ると、恐れとは、権威に対する畏敬の念のことです。おののきとは戦慄のことです。この一句は、ですから、終末の日にある裁きも念頭にしつつ、現在の人生への神の権威ある介入を畏敬の念をもって受け止め、「恐れとおののき」をもって救いの達成に励んでくださいという意味でしょう。「この文脈での命令は、個人に対するものではなく、教会という共同体に対して呼びかけられたものとして理解されるべきである。」[3] それにしても、救いの達成に励むとは何でしょうか。自力で自分の救いをつかみ取りなさいという意味でしょうか。この「勧告は、しばしば恩恵のみによる救いと相反する発言であるようにとられ、それゆえにまた問題となって来た。」[4]
その疑問に対する答えが13節にあります。パウロが勧めるのは、自己努力ではないのです。13節冒頭には「神」という単語をもってきて、「神があなたがたの中で働いているという理由があるからです」と述べます。外在する絶対他者の神ではなく、内在の身近な神をパウロは伝えています。古代教会で異端とされたペラギウスがとなえたような、人間と神との協同関係はないのです。人間と神とは決して対等ではありません。あくまで、神が主体です。「この場合、われわれの方は何もすることはないし、すべてはただ恵みなのである。」[5] そして、この恵みの神が、あなたの中で活動し、この神が、あなたの中で志を起こし、この神があなたの中で善意を実践するために活動するというのです。「神こそ偉大なエネルギー供給者であり、活動者である。」[6] 恵みはそれ自体にとどまることなく、必ず愛の行動を生み出していきます。そして、「恵みを知る者は、それを失おうとは思わないからである。しかも、その者は、恵みが不従順によって失われることを知っている。」[7] 神に対する信仰の服従なしに、わたしたちは何ひとつ神に喜ばれることを成し遂げることはできません。
14節に書かれていることは、上記の部分のまとめともいえる一句です。「すべてのことを、つぶやきや疑いなしに行いなさい」、というのです。これはどんな意味でしょうか。まず、つぶやきですが、これはもともと「不平を漏らす」、「苦情を申し立てる」、などの意味があります。つまり、人生の出来事に対して、その背後に神のご意思があることを認めず、自己の利得によって判断するのでこうなるのでしょう。さらに、「疑い」の方はどうでしょうか。これは、「計算、打算、推論、心の中で論じる」などの意味です。つまり、これも神のご意思を第一にせず、自分の中であれこれ理屈を組み立てて、人間的な常識に従って結論をだしてしまう過ちについて、パウロが指摘したものでしょう。旧約聖書の出エジプト記には、困難に遭遇したイスラエルの民が「つぶやいた」という記載が頻繁にみられます。つぶやきによって神に背を向けた結果は死でした。ですからこれは、「信仰の従順を決定的に危うくするものを回避するための主要な勧告なのである。」[8] フィリピ教会でも同じような「つぶやき」があったのでしょう。しかし、確かにこれは、イスラエルの民やフィリピ教会の信徒たちだけでなく、現代に生きるわたしたちにも反省を促す言葉なのです。「つぶやき」がないことが完全な服従のしるしだからです。
さらに15節では、フィリピ教会の信徒たちへの助言が続きます。「ここでは争いや口論といった古いパン種を取り除いて、生活を変えるように勧告しているのである。」[9] それは、彼らが非難されることない、純真な、傷のない神の子供となるためだと教えます。神の子とは人間ではなく、神から生まれた者という意味です。つまり、人間の努力の産物ではなく、われわれの今があるのは、神の命を受けたことによるのです。ですから、不変です。「親子の性質を共有する者は、神によって生まれたと説明される。」[10] また、純真であることは、悪しき点がないことです。「悪しき付加物は、すべてを滅ぼす恐れがある。」[11] 傷のないという表現は、旧約時代の神殿の犠牲に関係する言葉です。これは伝道にとっても、教会生活にとっても大切なことです。ここでパウロに一貫しているのは、神と信者たちの間における、いわゆる属性の交流ではないでしょうか。神の事を第一にするだけでは、その選択権はまだ古い肉なる自己にあるわけです。パウロが教えているのはそうした、一種の宗教性ではなく、自我という殻が破られた状態の事です。わたしたちの罪を救い主イエス・キリストが自分のものとして受け取って下さった様に、救い主イエス・キリストの純真で傷のない神との一致がわたしたちのものになるのです。これは大変なことを、パウロは言っているのです。そして、フィリピの信徒への手紙の基調である「喜び」の根幹にはこの考えがあるのです。そうして、曲がって歪んだ時代の真っただ中にあっても、世の中で光として輝くのだと述べられています。「ここでは終末時の状態が現在すでに、この世に生きる信徒たちにおいて実現するとみなされている。」[12] 未来を先取りして、現在の罪の暗黒の中でも輝き続ける光です。イエス様が教えた「世の光」にほかなりません。「教会は具体的な方法で、エネルギーを燃やし時間を費やして努力することにより、キリストの心を実現するべきである。」[13] それはわたしたちの心に内在するキリストがおられるからです。これを、パウロは伝えたかったのでしょう。
16節には、この光の存在理由が示されています。文頭に来ている言葉は、「生命の言葉」です。個人の意志や決断、真剣さなどではないのです。神の与える「生命の言葉」の働きです。これは新約聖書の中でも珍しい言葉です。ここには神のロゴスの受肉という意味が含まれているのかも知れません。そして、この「生命の言葉」の絶対性をパウロは強調します。ルターはこれを語られた神の言葉、すなわち説教として理解しました。つまり、この「生命の言葉」とは未来に起こることではなく、既にフィリピの信徒たちに宣べ伝えられ、彼らがいまだに堅く保持している「生命の言葉」のことです。そして、命とは救いと密接な関係のある言葉です。これがあるので、キリストの日(終末)に、パウロは自分が空しく走ったのではなく、空しく働いたのでもないことが自分の誇りに至るだろうと語ります。ここに「相手が救われなければ、自分もまた滅びるとする、彼の使徒職理解の厳しさがうかがわれる。」[14] これは、パウロの福音伝道が徒労に終わらないだとうとの確信ですが、その当時の人々の中で、一体誰が、この手紙を2千年後のわたしたちが読んでいるだろうと想像できたでしょうか。パウロにはできたのだと思います。そして、その認識は、人間からではなく、時空を超えた神から来ているのです。ですから、パウロは神の存在を証ししているのです。わたしたちも、この「フィリピの信徒への手紙」で神の働きの実際を承認せざるを得ないのです。歴史が証明しているからです。そして、それはとりもなおさず、わたしたち自身も、この世の闇の中に輝く光となるためです。「御言葉は私たちにいのちを約束するゆえに、私たちは神の言葉によって生き生きとするのである。」[15]
17節ではパウロの論調が変わります。たとえ、パウロが信仰の礼拝の時の血の犠牲の捧げものとなったとしても、喜ぶというのです。「血の犠牲」というのは、年一度の贖いの日に犠牲の動物の血が至聖所の契約の箱の場所に注がれたことを示します。イエス様の十字架の血の意味を示しています。ですから、これは15節の「傷のない」という表現と関連します。犠牲を捧げることは礼拝であり、礼拝において神と人との永遠の関係が示されます。そして、この関係の中に喜びと賛美があるわけです。「神をほめたたえる真実の神礼拝が生きる教会の信仰にほかならない。」[16] それも繰り返されていて、「喜ぶ、共に喜ぶ」と書かれています。これはどんな意味でしょうか。パウロはフィリピの指導者でもなく、使徒でもなく、礼拝の犠牲のそなえものなのです。おそらく、パウロはこれから自分に起ころうとしている殉教の死を暗示しているのではないでしょうか。「彼の処刑の知らせがピリピ人に届いたなら、取り乱したり、悲しんだりしてはならない。」[17] そうした犠牲も、神に己を犠牲としてささげることができたという一つの礼拝観、すなわち旧約の預言的な予兆が、イエス・キリストにあって完成されたという、パウロの喜びを奪い取ることはできないのです。これは不変の喜びなのです。
ここでパウロは終わりません。自分だけが喜んでいればよいのではなく、18節で、パウロはフィリピ教会の信徒にも、自分のように変わらずに喜び続けなさいと命じています。まさにこの手紙の真骨頂だといえます。やはり、わたしと一緒に喜び続けなさいと勧めています。一緒にというのは、共通の救いの体験を示しています。これこそ、喜びの使信、まさに福音と言えるでしょう。
[1] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、138頁
[2] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、27頁
[3] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、98頁
[4] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、140頁
[5] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、171頁
[6] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、100頁
[7] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、28頁
[8] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、180頁
[9] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、119頁
[10] ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、68頁
[11] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、30頁
[12] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、148頁
[13] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、88頁
[14] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、153頁
[15] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、30頁
[16] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、31頁
[17] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、188頁