印西インターネット教会

受難節を理解するために読む説教

「愛する子へ」            マルコ9:2-9

辻仁成の本で「息子に贈る言葉」という本があります。フランスでシングル・ファーザーとして子育てした経験を書いたわけです。あるとき彼にとって辛いことがあって、朝食をつくれませんでした。「今日はパパらしくないんだよ。冷蔵庫の中にバナナがあるから食べてってくれ。」息子は言いました、「パパは、たまにはパパらしくなくていいんだよ。」なんとも心温まる親子関係だとおもいます。そこで、イエス様とパパ様である神様との関係が書いてある聖書の箇所から学んでみましょう。

今年は4月4日がイースターですが、来週の水曜日が灰の水曜日、つまりそこから受難節(四旬節)が始まるのです。そのために今回の聖書箇所は、イエス様の受難を予兆するものとなっています。それにしても、すべての人に憎まれて殺されたイエス様が、神には愛されていたとは不思議なことです。もしかしたら、聖書の価値観と、一般社会の価値観は違うのかもしれません。辻仁成の息子さんは、パスカルを生んだフランスで育っていますから、価値観が違っていると思います。日本なら、親に対する甘えや自己本位もあって、普段と違う朝食に不平不満をのべることもあるでしょう。あなたはあなたでいいんだよという、肯定的な価値観は、西洋社会が育んできたものです。

旧約聖書の列王記上19章19節以下には、預言者エリヤと弟子のエリシャのことがでています。エリヤはエリシャが畑を耕している時に出会いました。エリヤが自分の着ていた外套をエリシャにかけると、あなたに従います、とエリシャが言ったのです。そして、いよいよエリヤが天に上げられる時がきました。エリシャは自分の先生であるエリヤから離れたくなかったのです。ところが「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」、と地元の預言者に何度も聞かれました。ここで、注意すべきなのは、「主が取り去ろうとなさっている」、と書いてあることです。神は与えるだけでなく、取り去ることもあるということです。実際に、イエス様を愛していると告げた神は、人々がイエス様を十字架にかけられることを止めませんでした。愛とは、単に守るだけではないのだとわかります。

パウロは、わたしたちの心には罪による覆いがかかっていると言います。パウロ自身もファリサイ派の学者として活動していたころには、心に律法の覆いがかかっていました。「こうでなければならない」という律法で、自分を裁き、人を裁いていたのです。だから、その当時のパウロはキリスト教徒を迫害していたのです。パウロだけでなく、イエス様を処刑した人々の心にも、覆いがかかっていたのに違いありません。ところが、パウロは復活の主イエス・キリストに出会ってかわりました。不思議なことに、律法の覆いがとれて、それまで見えなかったものが見えるようになったのです。「罪人のあなたはあなたでいいよ、あなたはあなたとして神に愛されているよ。」と確信をもって言えるようになったのです。この喜びを、パウロは「神の子としてアッバ父よと叫ぶのです。」(ローマ8:15)と言い表しています。イエス様が、主の祈りでも、アッバと呼びかけたと同じように。神に対して父ちゃんと叫ぶことができるのです。これこそ、聖書が大切にしている、創造者と被造物との関係、親密な親子関係、神と人類との関係なのです。こればわかれば、律法を起因とする多くのストレスはスーっと消えて行くことでしょう。

福音書の記事もやはり、弟子たちと先生であるイエス様の関係について書いてあります。弟子たちがイエス様と一緒に山に登ると、その衣服が輝き、純白に見えました。イエス様の服装は決して綺麗ではなかったでしょう。伝道で汚れていたでしょう。しかし、一緒にいたペトロやヨハネたちの忘れられない記憶として残ったのは、そのイエス様の衣服が白く神聖な輝きを持ったからです。イエス様の白く輝く服は、イエス様自身が、神との深い親子関係にあるかたであり、故に神の子であり、救い主であることを示したのです。

そして、この輝く白さに象徴されるイエス様の十字架の贖罪と復活の奇跡とは、わたしたちの罪に汚れた衣さえも、白く輝くものにされるという恩寵の予表なのです。信者の勇気や善行が彼らを救うのではありません。それは恩寵の世界ではなく律法の世界です。恩寵に於いて、清められない罪、除かれない欠点、越えられない障害は、全くありません。神に不可能はありません。神という価値観です。白という色は新しい価値観をあらわしているとも言えるでしょう。ですから、自分の汚れを知れば知るほど、白く清められる喜びがわかるのです。

わたしたちもまた神の子として生きることが許されています。「あなたはわたしの愛する子」という呼び掛けを聞くことができます。わたしたちもパウロと同じように、「神の子としてアッバ父よと叫ぶ」という救いの関係に入れて頂けるのです。そして、7節にある、「これに聞け」というのは、申命記18:19に「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」とあるのと同じです。神の愛の言葉を聞き逃してはいけないわけです。慈愛に満ちた神が、あたかも、全く罪も汚れもない我が子としてわたしたちを迎えて下さることを、聞き逃してはいけないわけです。

フランスの科学者であり信仰者であったパスカルは、人間が自分悲惨(罪)を知らないで神を信じると、高慢になると語っています。おそらくこれは、わたしたちすべてに共通する問題でしょう。ですから、ルターは後輩のメランヒトンへの手紙で罪を自覚するように書いています。「作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人をお救いになりません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。わたしたちがこの世にいるかぎり、罪を犯さざるをえません。罪を取り除くイエス・キリストを神の恵みによって知っただけで充分です。たとえ一日に千度殺人を犯しても、どんな罪でも、わたしたちをこの子羊から引き離すことはないでしょう。」そうです、鋭い罪の自覚だけが私たちをキリストに結び付けるのです。この子羊イエス・キリストこそ、「これは私の愛する子、これに聞け」というお告げがあった方です。同じお告げを、復活のイエス様は弟子たちに告げ、パウロも受け、ルターが尊敬した古代教父アウグスチヌスも聞き、ルター自身も聞き、わたしたちも、同じように、「あなたはあなたでいいよ、何故なら私があなたを愛しているから」と聞く事が出来るのです。それが十字架と復活の教えです。

絶対的で無条件な神の愛をズシンと重く体験できるのは恵みです。これが、新しい幕開けです。罪人に対する主イエス・キリストの偉大な肯定を受け、わたしたしたちは苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても絶望せず、落胆しないようになるのです。今まで見えなかった神の絶対愛の世界が見え始めるのです。それは、神学者バルトも言ったことです。「キリスト者は、自分自身の中心を自分の外側に持っている人のこと、つまり自分にではなくイエス・キリストという対象を自分の中心として生きている人間のことです。」

こんな話があります。インドに年取った真珠とりがいました。この老人に外国の宣教師が福音を伝えていました。しかし、インドでは、人間の救いはその人が苦行をするとか、良い行いをするとかしないと救われないという宗教観があったのです。まさに日本と同じ律法の世界です。ですから、この老人は、罪人であっても、ただ信じれば救われるということが理解できませんでした。ある時、宣教師は本国に帰らなくてはいけなくなり、老人に別れの挨拶にいきました。すると、老人は悲しそうな顔をして、見たこともないような大きな真珠を差出し「これは今までの教えへの感謝の気持ちです」と言いました。宣教師はこんなに高価なものを受け取れませんと、断りました。でも、老人は是非受け取ってほしいと頼みました。そこで、宣教師は「では、十分ではありませんが少なくともその真珠の半分の価格を支払いましょう」と言いました。すると、老人は、また悲しそうな顔をして、「実は、息子も真珠とりでしたが、海の事故で亡くなった時にその手の中にしっかり握っていたのがこの真珠なのです。この真珠は最愛の息子のいのちなのです。値段はつけられません。ただで受け取ってください。それがわたしの心からの気持ちです」と言いました。宣教師は感動して言いました、イエス様も同じです。神さまの愛するひとり子が、わたしたちの罪の贖いの犠牲となって十字架で死んで命を与えてくださったのです。それに対して人間の努力や価値をつけ加える必要はないのです。ただ、感謝して受け取ればいいのです。

愛する子失った親である、老人は初めて、自分の正しさや努力ではない、自分の外側にある神の絶対愛を理解する事が出来て、救い主を信じたそうです。

罪人であるわたしたちに与えられたのは、神の最愛の息子イエス・キリストの尊い命です。この事を来週からはじまる受難節で心にとめましょう。愛する子から、愛する子へと、また次の愛する子へと、福音の真珠は伝えられてきています。「あなたはわたしの愛する子供、あなたはあなたでいいよ」、と神は今日も優しく語りかけてくださるのです。

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